町組(上京・下京) (まちぐみ(かみぎょう・しもぎょう)
【概説】
戦国期から安土桃山時代にかけて、京都の町衆によって形成された治安維持と自治運営のための地域共同体。室町時代の「町」を基礎とし、京都を大きく南北の「上京」と「下京」に分けた上で、複数の「町」を結合して組織された自衛的・行政的な連合組織。
町組の成立背景と町衆の自治
応仁の乱に始まる戦国時代の京都は、室町幕府の権威失墜と恒常的な戦乱によって治安が極度に悪化していた。こうした無政府状態の中で、自衛の必要性に迫られた京都の富裕な商工業者(町衆)は、道路を挟んだ両側の家々からなる「両側町(りょうがわちょう)」を基本単位とする「町」を結成した。各町は周囲に木戸(町門)を設け、侵入者を防ぐ防衛体制を整えた。この「町」が、さらに防災や防犯、相互扶助のために広域的な連合を形成したものが「町組」である。
上京・下京の地域的特性と自治活動
京都の町組は、内裏や公家衆・武家屋敷が集中し、高級手工業が発展した北半の「上京」と、商業活動の中心地であり、庶民の活気に満ちた南半の「下京」の2つの地域に大きく大別されて組織された。町組の運営は、町衆の中から輪番で選ばれる「月行事(がちぎょうじ)」が担い、町法(独自のルール)の制定、町民同士の訴訟の裁決、さらには応仁の乱で途絶していた祇園祭の再興・運営に至るまで、極めて高度な自主独立の姿勢をもって行われた。
信長・秀吉による統制と近世への移行
安土桃山時代に入り、織田信長や豊臣秀吉が京都を支配下に置くと、町組は「天下人」の強力な統一権力に服することとなった。特に豊臣秀吉は、京都の都市改造計画(天正の地割)を断行し、寺院を一箇所に集める(寺町)などして町組の境界を再編した。同時に、秀吉は伝統的な町組の自治組織を利用して検地や課税、治安維持(落書きの取り締まりや惣無事令の徹底)の末端行政機関へと組み込んでいった。これにより、中世的な「自力救済」に基づく自律的共同体であった町組は、江戸時代における町奉行の支配下で行政機能を担う「近世町組」へと変質していくこととなった。