根来 (ねごろ)
【概説】
紀伊国北部(現在の和歌山県岩出市)に位置し、新義真言宗の総本山・根来寺を中心とした宗教的・軍事的拠点。戦国時代には優れた鉄砲製造技術と「根来衆」と呼ばれる強力な僧兵集団を擁し、天下人にとっても無視できない巨大な独立勢力を形成した。
新義真言宗の開創と根来寺の台頭
根来の歴史は、平安時代末期に高野山の学僧であった覚鑁(かくばん)が、高野山内の対立から逃れて紀伊国那賀郡の根来の地に大伝法院を移転したことに始まる。覚鑁は真言密教の教理に新たな解釈を加えた新義真言宗を確立し、根来はその学問・信仰の中心地として栄えた。
鎌倉時代から室町時代にかけて、根来寺は院家や僧坊を急速に増やし、周辺の広大な荘園を支配する有力な領主へと成長した。最盛期には「根来百合(ねごろひゃくごう)」と呼ばれるほど多くの塔頭が立ち並び、宗教活動のみならず、独自の裁判権や課税権を持つ、事実上の自治領主(寺社勢力)として機能するようになった。
鉄砲の伝来と「根来衆」の軍事力
1543年に種子島へ鉄砲が伝来すると、根来寺の僧侶であった津田妙算(杉坊)が現地に赴き、鉄砲の製造技術と射撃術を根来に持ち帰ったとされる。これにより、根来は堺や近江の国友と並ぶ、日本有数の鉄砲生産拠点となった。
根来寺の僧兵やその周辺に居住する土豪たちは、優れた鉄砲射撃技術を備えた集団へと変貌し、「根来衆」と呼ばれる強力な武装組織を形成した。彼らは強大な軍事力を背景に、畿内の戦乱に介入し、傭兵としてさまざまな戦国大名に雇われた。隣接する紀伊国中北部の土豪集団「雑賀衆(さいかしゅう)」とも深く結びつき、独自の鉄砲戦術をもって各地の戦場で恐れられた。
豊臣秀吉による紀州征伐と根来の終焉
天下統一を目指す織田信長に対して、根来衆は協力と対立を繰り返したが、信長の死後に権力を握った豊臣秀吉とは決定的な対立関係に至った。1584年の小牧・長久手の戦いにおいて、根来衆は徳川家康や織田信雄と結び、大坂の秀吉の背後を脅かす軍事行動を起こした。
これに危機感を抱いた豊臣秀吉は、翌1585年に大軍を率いて紀伊国へと侵攻した(紀州征伐)。圧倒的な兵力を前に根来寺はたちまち包囲され、秀吉軍の総攻撃によって大塔(大伝法院多宝塔)などの一部の建物を残して、壮大な伽藍の大部分を焼失した。これにより、中世以来続いてきた宗教都市としての自立性と、強力な軍事拠点としての「根来」の歴史は終焉を迎えた。