ルイス=フロイス
【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけて日本で活動したポルトガル出身のイエズス会宣教師。織田信長に厚遇されて京都などで布教活動を行い、日本におけるキリスト教の発展に大きく貢献した。彼が書き残した名著『日本史』は、ヨーロッパ人の視点から当時の政治動向や社会風俗を克明に記録しており、第一級の歴史史料として極めて重要である。
来日と初期の布教活動
ルイス=フロイスは、1532年にポルトガルの首都リスボンで生まれ、1548年に結成されて間もないイエズス会に入会した。その後、インドのゴアを経て、1563年(永禄6年)に日本の肥前国横瀬浦(現在の長崎県西海市)に上陸を果たした。
来日後は、先輩宣教師であるガスパル=ヴィレラとともに京都周辺での布教活動に従事した。室町幕府第13代将軍・足利義輝に拝謁して布教の許可を得るなど順調な滑り出しを見せたが、1565年の永禄の変で義輝が暗殺されると、仏教勢力や反キリスト教派の排斥運動に遭い、和泉国の堺への避難を余儀なくされた。しかし、この堺での滞在期に日本の言語や風習への理解を深め、後の卓越した記録者としての基盤を築くこととなった。
織田信長との邂逅と厚遇
フロイスの運命を大きく変えたのは、天下統一に向けて台頭していた織田信長との出会いである。1569年(永禄12年)、フロイスは足利義昭のために信長が建設中であった二条城の建築現場において、初めて信長と面会した。この際、信長はフロイスの持ち込んだ西洋の知識や物品に強い興味を示し、彼を大いに気に入ったとされる。
信長はフロイスに対して京都での布教を正式に許可し、以後、彼は信長の厚い庇護下で活動を展開した。岐阜城や建設中の安土城にも幾度となく招かれ、信長と数多くの対話を重ねている。信長がキリスト教を保護した背景には、南蛮貿易による経済的・軍事的利益(鉄砲や火薬の調達など)を重視したことに加え、比叡山延暦寺の焼き討ちや一向一揆との戦いに見られるように、強大な政治力・軍事力を持つ既存の仏教勢力を牽制する意図があったと考えられている。フロイスはこうした信長の合理的な精神や権力基盤の強化を間近で目撃することとなった。
豊臣秀吉の台頭と宣教師の苦境
1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が横死した後、天下人となった豊臣秀吉に対しても、フロイスは当初良好な関係を保っていた。秀吉も初期は信長の政策を踏襲し、キリスト教の布教を黙認していたためである。
しかし、九州平定後の1587年(天正15年)、秀吉は突如としてバテレン追放令を発布する。これは、長崎がイエズス会に寄進されて領地化していたことや、過激な日本人信徒による寺社破壊、さらにポルトガル商人による日本人奴隷の売買など、キリスト教勢力が日本の脅威になり得ると秀吉が警戒した結果であった。この禁令により、フロイスら宣教師たちは京都などを追われ、長崎や九州各地に潜伏することを余儀なくされた。晩年のフロイスは布教の最前線から退き、記録者としての執筆活動に専念していくこととなる。
第一級史料としての『日本史』の意義
フロイスが日本史において極めて重要な存在とされる最大の理由は、彼が書き残した『日本史』(フロイス日本史)の存在である。イエズス会総長などの命を受けて執筆されたこの大著は、単なる布教の報告書にとどまらず、16世紀後半の日本の政治情勢、戦国武将の動向、民衆の生活、宗教観などを、ヨーロッパ人の客観的かつ鋭い視点から克明に描写している。
特に、直接交友のあった織田信長に関する記録は詳細を極める。信長の容姿、性格、日常の振る舞い、合理的で峻烈な統治手法などが活写されており、太田牛一の『信長公記』などの日本側史料と照らし合わせることで、より立体的で正確な信長像を構築する上で不可欠な史料となっている。また、『日欧文化比較』などの著述を通じ、当時の日本とヨーロッパの衣食住や死生観の違いを比較文化論的に記録しており、政治史のみならず文化史・風俗史の観点からも、同時代の日本を知る上で比類のない歴史的価値を持っている。