原マルチノ

天正遣欧使節の副使を務め、優れた語学力でラテン語の演説などをこなし、のちにマカオで亡くなった人物は誰か?
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重要度
★★

原マルチノ (はらまるちの)

1569年頃〜1629年

【概説】
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍したキリシタンにして、天正遣欧使節の副使。優れた語学の才能を発揮してヨーロッパ諸国との交流を支え、帰国後およびマカオ追放後は翻訳や文筆活動を通じてキリスト教の布教と東西文化の架け橋として貢献した知識人である。

天正遣欧使節への抜擢と抜群の語学力

原マルチノは肥前国(現在の長崎県)のキリシタンの家系に生まれた。イエズス会が宣教師育成のために設立した初等教育機関であるセミナリヨで学び、そこでラテン語をはじめとする外国語に極めて優れた才能を示した。この語学力が評価され、1582年に巡察使ヴァリニャーノが企画した天正遣欧使節の副使(伊東マンショ、千々石ミゲルが正使、中浦ジュリアンとともに副使)に抜擢された。

使節団はヨーロッパ各地で大歓迎を受け、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見などを果たした。この旅の途中、マルチノはトスカーナ大公国(フィレンツェ)などでラテン語による演説や謝辞を述べ、その流暢さと高い教養によって、ヨーロッパの人々に日本人の知的水準の高さを示す大役を果たした。

激動の日本とキリスト教禁教への直面

1590年に帰国した使節団を待ち受けていたのは、豊臣秀吉によるバテレン追放令(1587年)後の緊迫した情勢であった。マルチノらは秀吉に謁見し、ヨーロッパから持ち帰った活版印刷機や西洋楽器を披露して懐柔を試みた。その後、イエズス会に入会したマルチノは司祭となるための修行を積み、1608年には日本国内で司祭(神父)に叙階された。

しかし、江戸幕府によるキリスト教弾圧は厳しさを増し、1612年の天領への禁教令、翌1613年の全国へのキリスト教禁止令へと発展した。これにより、1614年にマルチノは多くのキリシタン宣教師や高山右近らとともに、ポルトガル領のマカオへと追放されることとなった。

マカオ追放と語学力を生かした文化的業績

国外追放されたマルチノであったが、キリスト教の情熱と学術への情熱は衰えなかった。追放先のマカオにおいて、持ち前の語学力を最大限に活かし、キリスト教の教理書や各種文学、辞書などの翻訳・編纂活動に尽力した。

特に、ジョアン・ロドリゲスが著した『日本大文典』の編纂を助けたほか、日本のキリシタン史や教会の活動記録の翻訳・校訂に携わったことは、当時の日本の状況をヨーロッパに正確に伝える貴重な資料を残すことにつながった。激動の時代に翻弄されながらも、東洋と西洋の言語文化を繋ぐ知的媒介者として、その生涯をマカオの地で閉じた。

天正遣欧使節記 (1979年) (新異国叢書〈5〉)

若き少年たちが命懸けで辿った欧州への航路と激動の時代を、当時の一次史料から鮮明に浮かび上がらせる貴重な記録。

イエズス会日本年報 (上) (新異国叢書)

戦国から江戸初期の日本を宣教師の視点で克明に描き出した、歴史の転換期を知るための極めて重要な資料的価値の高い書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

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Q. 水戸学や国学の影響を受けて広まった、天皇を絶対的な存在として尊ぶ政治思想を何というか?
Q. 後醍醐天皇の皇子で、天台座主であったが還俗し、吉野などでゲリラ戦を展開して幕府を苦しめた人物は誰か?