足利義昭
【概説】
室町幕府の第15代、そして事実上最後の征夷大将軍。織田信長に擁立されて上洛を果たし将軍位に就いたが、次第に信長と対立して「信長包囲網」を形成したものの、1573年に京都から追放された。これにより室町幕府は実質的に滅亡したとされる。
将軍就任までの流転
足利義昭は、室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として生まれた。当初は仏門に入り「覚慶(かくけい)」と名乗って奈良の一乗院門跡となっていた。しかし、1565年の永禄の変において、兄である第13代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀らによって暗殺されると、義昭の運命は大きく変わることとなる。
幽閉状態から脱出した彼は還俗して義秋(のちに義昭)と名乗り、次期将軍となるべく諸大名に上洛の協力を求めた。近江の六角氏や越前の朝倉義景などを頼って流浪の生活を送ったが、最終的に朝倉氏に仕えていた明智光秀の仲介により、美濃を平定したばかりの織田信長を頼ることとなる。1568年、信長は義昭を奉じて上洛軍を起こし、三好氏らを畿内から駆逐した。これにより義昭は念願の上洛を果たし、第15代征夷大将軍に就任した。
信長との対立と「信長包囲網」
将軍となった義昭は、室町幕府の再興を目指して旧幕府の秩序や権威を復活させようと試みた。しかし、武力によって畿内を制圧した信長の狙いは、将軍の権威を利用しつつ自身が天下の実権を握ることであった。信長は「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」などを突きつけて義昭の政治的権力を制限しようとし、両者の対立は次第に決定的なものとなっていった。
権力奪還を図る義昭は、諸大名に密書を送って信長討伐を呼びかけた。これに呼応した越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、甲斐の武田信玄、さらに石山本願寺や比叡山延暦寺などの宗教勢力までもが結集し、強力な信長包囲網が形成された。1572年には武田信玄が西上作戦を開始し、三方ヶ原の戦いで徳川家康・織田信長の連合軍を打ち破るなど、信長は一時期、最大の窮地に追い込まれた。
京都追放と室町幕府の実質的滅亡
しかし、1573年に武田信玄が陣中で病死すると、包囲網は一気に崩壊へと向かう。信玄の死により窮地を脱した信長は反撃に転じ、義昭が挙兵して籠城した山城国の槇島城(まきしまじょう)を攻め落とした。敗れた義昭は降伏を余儀なくされ、信長によって京都から追放された。
この1573年の足利義昭追放をもって、約240年続いた室町幕府は実質的に滅亡したと日本史では位置づけられている。信長が旧来の権威の象徴である幕府機構を畿内から排除したことは、中世的な政治秩序の終焉と、新たな中央集権的武家政権(織豊政権)の樹立を象徴する極めて重要な歴史的転換点であった。
追放後の動向と晩年
京都を追放された後も、義昭は自ら将軍職を辞任したわけではなく、依然として「将軍」としての権威を保ち続けた。彼は毛利氏を頼って備後国の鞆の浦(とものうら)に下向し、そこに独自の幕府組織(いわゆる「鞆幕府」)を構え、西国大名に影響力を及ぼしながら信長打倒の機会を窺い続けた。
1582年の本能寺の変で信長が倒れたのち、覇権を握った豊臣秀吉が天下を統一に向かわせると、義昭は1588年に秀吉と和睦してようやく京都への帰還を果たした。同年、義昭は正式に将軍職を朝廷に辞任して出家し、「昌山(しょうざん)」と号した。その後は秀吉から山城国に一万石の領地を与えられ、豊臣政権下でかつての将軍としての処遇を受けながら御伽衆(おとぎしゅう)として余生を送り、1597年に大坂で波乱に満ちた生涯を閉じた。