長島一向一揆 (ながしまいっこういっき)
【概説】
戦国時代に伊勢国長島(現在の三重県桑名市)周辺で起こった、浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒らによる織田信長に対する大規模な蜂起。本願寺法主・顕如の呼びかけに応じた一揆勢は、川や中洲が複雑に入り組む要害を利用して信長を数年にわたり苦しめた。しかし、最終的には1574年に信長の大軍に包囲され、数万人が焼き殺されるという凄惨な結末を迎えて壊滅した。
一揆の背景と長島という「要害」
長島一向一揆が勃発した背景には、織田信長による天下統一事業と、それに抵抗する宗教勢力・国人領主との激しい対立がある。木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の河口部に位置する伊勢長島は、本願寺の末寺である願証寺を中心とした一向宗の強固な拠点であった。この地域は水網が複雑に入り組んだ湿地帯(輪中地帯)であり、外部からの侵入が極めて困難な天然の要害となっていた。
1570年(元亀元年)、石山本願寺の法主・顕如が全国の門徒に向けて信長打倒の命令を下すと(石山合戦の勃発)、長島の門徒もこれに呼応して一斉に蜂起した。彼らは信長の弟である織田信興を自害に追い込むなど、初期から織田勢に多大な打撃を与えた。
信長の苦戦と度重なる敗退
信長は長島の一揆勢を危険視し、自ら大軍を率いて1571年(元亀2年)と1573年(天正元年)の二度にわたり大規模な征伐を試みた。しかし、泥濘に足を取られる地勢と、一揆勢が駆使する鉄砲を用いたゲリラ戦術に悩まされ、織田軍は敗退を余儀なくされた。この過程で、信長の重臣であった氏家直元(卜全)が討ち死にするなど、織田家は多くの将兵を失う痛手を被った。この頑強な抵抗は、信長包囲網を形成する他国の大名たちを勢いづかせる要因ともなった。
1574年の総攻撃と凄惨な結末
二度の失敗を経た信長は、1574年(天正2年)7月、大動員をかけて三度目の長島征伐を敢行した。今回は陸路からの包囲だけでなく、九鬼嘉隆率いる伊勢水軍などを動員して海上および大河からも完全な封鎖を敷いた。信長は一揆勢を力攻めにするのではなく、兵糧攻めによって干殺しにする戦略をとった。
数ヶ月に及ぶ包囲により兵糧が尽きた一揆勢は降伏を申し出たが、信長はこれを拒絶した。最後の拠点となった中江城や屋長島城に追い詰められた門徒に対し、信長は城の周囲に何重もの二重の柵を巡らせて完全に閉じ込め、四方から一斉に火を放った。この「焼き殺し」により、武器を持たない婦女子を含む約2万人もの人々が焼死し、長島の一向一揆は事実上、完全に根絶やしにされた。
長島平定がもたらした歴史的意義
長島一向一揆の徹底的な殲滅は、戦国大名による「天下統一」の過程において、中世的な宗教自治勢力の解体を象徴する象徴的な事件となった。信長が見せた極限の容赦のなさは、他の反抗的勢力に対する強力な軍事的見せしめとして機能した。実際、この翌年の1575年には越前一向一揆が同様の苛烈さで平定され、最終的な1580年の石山本願寺の退去(石山合戦の終結)へとつながっていく。長島での過酷な弾圧は、近世的な兵農分離と大名一元支配を確立するための、避けて通れない過酷な画期であったと言える。