天王山
【概説】
山城国と摂津国の国境に位置し、羽柴秀吉と明智光秀が争った山崎の戦いの舞台となった要衝の山。この山をいち早く制した羽柴秀吉が勝利を収め天下人への道を歩み始めたことから、現代でも「勝敗の行方を決める重大な局面」を指す代名詞となった。
京都と西国を繋ぐ軍事・交通上のボトルネック
天王山(現在の京都府乙訓郡大山崎町)は、標高約270メートルの山である。規模こそ小さいものの、その地理的価値は極めて高かった。天王山の南麓には淀川が流れており、山と川に挟まれた平地はわずか数百メートルほどの非常に狭い通路となっていた。この地は古くから京都と西国(大坂・山陽道)を結ぶ西国街道が通る交通の要地であり、軍事的には京都への侵入を防ぐ、あるいは京都から打って出るための最大の防衛線であった。
同時代において、この狭隘な地を制圧することは、畿内と西国を繋ぐ流通と軍事行動を完全に掌握することを意味していた。そのため、京都で政変や戦乱が起こるたびに、天王山周辺は常に重要な戦略拠点として注目されてきた歴史を持つ。
山崎の戦いにおける「天王山」の真実
1582年(天正10年)6月、本能寺の変によって織田信長が横死すると、中国地方から驚異的な速度で引き返してきた羽柴(豊臣)秀吉と、信長を討った明智光秀が山崎の地で激突した(山崎の戦い)。
この戦いにおいて、天王山の山頂を占拠することは、戦況を有利に進めるための絶対条件であった。高地を占拠すれば、麓に布陣する敵の動きを完全に監視し、効果的な側撃を加えることができるからである。秀吉方の先陣を務めた中川清秀や高山右近、堀秀政らの部隊が、光秀軍に先んじて天王山を占拠することに成功した。これにより、平野部での主力決戦において秀吉軍は心理的にも戦術的にも優位に立ち、光秀軍を敗北に追い込む決定打となった。
戦後の「山崎城」築城と天下人への足がかり
山崎の戦いに勝利した秀吉は、戦後直ちに天王山の山頂付近に山崎城(宝寺城)を築城した。この城は天守や石垣を備えた本格的な城郭であり、秀吉はここで清洲会議後の織田政権内の政務や、織田信孝・柴田勝家ら対抗勢力との外交交渉を行った。のちに大坂城に移るまでの約1年半にわたり、秀吉はこの山崎城を拠点として畿内支配を固めており、天王山はまさに秀吉が天下人へと上り詰めるための政治・軍事の出発点となったのである。