山崎の合戦

本能寺の変を知った羽柴秀吉が毛利氏と急遽和睦して引き返し、京都の南で明智光秀を打ち破った戦いを何というか?
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★★★

【参考リンク】
山崎の戦い(Wikipedia)

山崎の合戦 (やまざきのかっせん)

1582年

【概説】
1582年(天正10年)、本能寺の変の直後に山城国山崎(現在の京都府大山崎町付近)において、羽柴秀吉と明智光秀の間で行われた合戦。備中高松城から「中国大返し」と呼ばれる驚異的な速度で軍を返した秀吉が、主君・織田信長を討った光秀の軍勢を打ち破った。この勝利により、秀吉は織田政権の後継者として天下人への道を大きく歩み出すこととなった。

本能寺の変と「中国大返し」

1582年(天正10年)6月2日、明智光秀による本能寺の変が勃発し、天下統一を目前にしていた織田信長が横死した。この時、織田家の有力武将の一人であった羽柴(豊臣)秀吉は、備中国(現在の岡山県)で毛利氏の配下にある高松城を水攻めしている最中であった。変の報せを密かに受け取った秀吉は、主君の死を秘匿したまま毛利氏と迅速に和睦を結び、直ちに全軍を反転させて京都を目指した。

これが世に名高い「中国大返し」である。秀吉軍は、悪天候や疲労を乗り越えながら約200キロメートルの道のりをわずか十日足らずで踏破するという前代未聞の機動力を発揮し、光秀の予測を完全に覆す速さで畿内への帰還を果たした。

光秀の誤算と両軍の布陣

一方、信長を討ち果たした明智光秀は、京都周辺の平定や朝廷への工作を進めるとともに、近畿地方の有力な大名や国衆に協力を呼びかけた。しかし、縁戚関係にあった細川藤孝(幽斎)や忠興父子、さらには与力として行動を共にしていた大和の筒井順慶らにも加勢を拒絶され、目論見は大きく外れることとなった。

そこに秀吉軍急接近の報が入り、光秀は淀川と天王山(標高約270メートル)に挟まれた山城国山崎の狭隘な地形を利用して迎撃する態勢をとった。光秀軍が約1万6千であったのに対し、摂津国周辺で織田信孝や丹羽長秀、池田恒興ら信長恩顧の将を合流させた秀吉軍は、約4万という圧倒的な兵力に膨れ上がっていた。

天王山をめぐる攻防と光秀の最期

6月13日、両軍は山崎の地で激突した。後世に重大な勝敗の分水嶺を意味する「天下分け目の天王山」という言葉が生まれたように、この合戦では局地的な高台である天王山の占拠が戦局を左右したと俗に言われる(ただし、近年の研究では天王山そのものをめぐる激しい前哨戦が存在したかについては異論もある)。

戦端が開かれると、緒戦こそ光秀軍も地形を活かして頑強に抵抗したものの、兵力差と大義名分を得て士気旺盛な秀吉軍の側面からの猛攻によって次第に戦線が崩壊した。結果として光秀軍は総崩れとなり、敗走を余儀なくされた。光秀は再起を図るべく自身の居城である近江坂本城へ向けて逃亡したが、その途上の小栗栖(おぐりす)の竹藪において、落ち武者狩りの土民の襲撃を受けて命を落としたとされる。光秀の政権はわずか十数日で潰え、後に「三日天下」と称されることとなった。

歴史的意義―秀吉の天下取りへの助走

山崎の合戦は、単なる主君の仇討ちという次元を超え、織田家内部の権力構造を劇的に一変させる歴史的転換点であった。この合戦において、秀吉は「信長の仇を討った最大の功労者」としての地位をいち早く確立し、他の重臣たちに対して圧倒的な優位に立ったのである。

直後に開かれた清須会議(清洲会議)において、秀吉はこの戦功を背景に織田政権内での主導権を握り、筆頭家老であった柴田勝家と鋭く対立していく。すなわち、山崎の合戦における大勝は、羽柴秀吉が一介の武将から織田家の実質的後継者、さらには天下人へと飛躍するための最初の関門であり、後の豊臣政権成立へ向けた決定的な布石となったのである。

太閤記(上) (岩波文庫 黄129-1)

庶民の視点から描かれた豊臣秀吉の出世物語、時代を超えて読み継がれる戦国時代の壮大な一代記。

明智光秀と本能寺の変 (PHP文庫)

歴史の謎に迫る緻密な史料検証を通じて、本能寺の変の真実を多角的に解き明かす気鋭の論考。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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