石田三成
【概説】
豊臣政権下で五奉行の一人として、検地や兵站など実務・行政の中心を担った武将。豊臣秀吉の死後、天下への野心を露わにする徳川家康の専横に反発し、毛利輝元らを擁立して関ヶ原の戦いを起こしたが、敗れて処刑された。
豊臣政権を支えた卓越した実務官僚
近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市)の土豪の家に生まれた三成は、幼少期に長浜城主となった羽柴(豊臣)秀吉に見出され、小姓として仕え始めた。秀吉の天下統一の過程において、三成は最前線での武功よりも、主に後方支援や兵站、占領地の統治といった面で非凡な手腕を発揮した。1583年の賤ヶ岳の戦いや1590年の小田原征伐における忍城の水攻めなどで活躍したほか、豊臣政権の権力基盤を支える全国的な太閤検地の実施において中心的な役割を果たし、秀吉から絶大な信頼を得るに至った。
五奉行の筆頭格と「文治派・武断派」の対立
天下統一後、三成は豊臣政権の政務を担う五奉行の一人となり、浅野長政や増田長盛らとともに司法・行政を統括した。しかし、秀吉の意を汲んで法と制度に基づく中央集権化を推し進める三成らの強大な権限は、現場で戦う大名たちとの間に軋轢を生んだ。特に朝鮮出兵(文禄・慶長の役)において、現地部隊の査定や軍令の伝達を行う三成ら「文治派」と、加藤清正や福島正則ら最前線で命を懸ける「武断派」との対立が決定的なものとなった。三成は戦況の膠着や武断派の専断を軍監として秀吉に報告する立場にあり、これが武断派諸将の激しい恨みを買う原因となったのである。
秀吉の死と徳川家康への徹底抗戦
1598年に秀吉が没すると、五大老筆頭の徳川家康が豊臣政権の法度を破り、無断で大名間の婚姻を結ぶなど専横を強め始めた。豊臣家への強い忠誠心と法治主義を重んじる三成はこれに強く反発したが、1599年に政権内の重鎮であった前田利家が死去すると、武断派七将による三成襲撃事件が勃発する。家康の政治的介入によって三成は奉行職を退かされ、居城である近江・佐和山城への蟄居を余儀なくされた。しかし三成は豊臣家を守るため、会津の上杉景勝およびその重臣・直江兼続らと密かに結び、家康を挟撃して政権の秩序を回復する計画を練り続けた。
関ヶ原の戦いと後世の評価
1600年(慶長5年)、家康が上杉討伐のために大軍を率いて畿内を離れると、三成は五大老の一人・毛利輝元を総大将に据えて挙兵に踏み切った。これが天下分け目の関ヶ原の戦いである。三成は「西軍」を組織し、美濃国関ヶ原で家康率いる「東軍」と激突した。自陣営は奮戦したものの、小早川秀秋をはじめとする味方の裏切りや日和見が相次ぎ、結果として西軍は1日で崩壊、大敗を喫した。逃亡の末に捕らえられた三成は、京都の六条河原で処刑された。
江戸時代を通じて、三成は「神君・家康に抗った奸臣」として否定的に描かれることが多かった。しかし近代以降は、個人の利益よりも豊臣家への義を貫いた忠臣として、また乱世において武断政治から文治政治への移行を模索した優れた政治家・官僚として再評価が進んでいる。彼の敗北は、武士の社会において未だ「法や制度」よりも「武力と恩賞」が重んじられる時代の限界を示していたとも言える。