洛中洛外図屏風 (らくちゅうらくがいずびょうぶ)
【概説】
室町時代後期から江戸時代にかけて制作された、京都の市街(洛中)およびその郊外(洛外)の景観や人々の生活を鳥瞰的に描いた屏風絵。名所旧跡にとどまらず、権力者の邸宅や四季の行事、町衆のいきいきとした営みまでが克明に描写されており、優れた美術品としてだけでなく、当時の社会を読み解く第一級の歴史的・風俗的史料として極めて重要である。
洛中洛外図の成立と町衆の台頭
洛中洛外図屏風は、応仁の乱(1467〜1477年)による荒廃から京都の町が復興を遂げ、経済的発展を背景に町衆(まちしゅう)と呼ばれる富裕な商工業者が台頭した室町時代後期に描き始められた。現存最古とされるのは、16世紀前半(1520年代頃)の京都を描いたとされる「歴博甲本(町田本)」である。初期の洛中洛外図は、主に室町幕府の将軍や有力公家、大名などの注文によって狩野派や土佐派の絵師が制作したと考えられている。
画面は通常、六曲一双(六つ折りの屏風が左右二つで一組となる形式)で構成され、すやり霞(金雲)によって空間を区切りながら、高い視点から都全体を見渡す鳥瞰図法(ちょうかんずほう)が用いられている。右隻(向かって右側の屏風)に下京や東山方面を、左隻に上京や北山方面を配し、春夏秋冬の季節の移ろいを画面の右から左へと展開させるのが伝統的な基本構図であった。
権力の可視化とプロパガンダとしての役割
洛中洛外図は、単なる名所案内や風景画ではなく、時の権力者の威信を示す政治的なプロパガンダとしての側面を強く持っていた。その代表にして最高傑作とされるのが、安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳が描き、国宝に指定されている「上杉本洛中洛外図屏風」(1565年頃の景観)である。
この上杉本は、1574年に織田信長が越後の上杉謙信に贈ったものと伝わる。画面の中心には足利将軍家の邸宅(花の御所)や細川氏の邸宅が壮麗に描かれており、「信長が室町将軍家を庇護し、天下の都である京都を掌握している」という事実を、地方の有力大名である謙信に視覚的に誇示する外交的意図があったと指摘されている。
時代が下り豊臣政権期になると、豊臣秀吉の造営した聚楽第(じゅらくだい)や方広寺大仏殿が画面の中心を占めるようになり、さらに江戸時代に入ると、徳川将軍家の権威の象徴である二条城が巨大に描かれるようになる。このように、洛中洛外図に描かれるランドマークの変遷をたどることで、京都における政治権力の交代を克明に読み取ることができる。
多様な身分と風俗を描き出す第一級の史料
洛中洛外図屏風のもう一つの大きな魅力であり歴史的価値は、そこに描かれた数千人にも及ぶ人々の生活描写にある。天皇や公家、武士といった特権階級だけでなく、職人、商人、僧侶、さらには道端の乞食や遊女に至るまで、都市空間に生きるあらゆる階層の人物が描き込まれている。特に、応仁の乱後に町衆の力によって復活を遂げた祇園祭の山鉾巡行は、都の活気と復興の象徴として、ほとんどの作品で画面の目立つ位置に華大に描かれている。
また、店舗での商いの様子、職人の手仕事、南蛮人の姿、寺社での勧進興行や遊楽の光景などは、当時の衣服や髪型、建築様式、商業活動を知る上で欠かせない風俗史料である。江戸時代に入ると、洛中洛外図は将軍や大名だけでなく、裕福な町人たちの間でも注文・制作されるようになり、名所図会や近世初期風俗画、ひいては浮世絵の源流へと発展していくこととなった。