薩摩焼

島津義弘が朝鮮出兵の際に連れ帰った陶工たちによって始められ、のちに幕末の輸出などでも活躍した鹿児島県の陶磁器は何か?
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重要度
★★★

薩摩焼

1598年〜

【概説】
安土桃山時代の朝鮮出兵の際、島津義弘が連れ帰った朝鮮の陶工たちによって創始された鹿児島県の陶磁器。豪華絢爛な「白薩摩」と大衆向けの「黒薩摩」の二系統を持ち、幕末から明治期にかけては「SATSUMA」の名で欧米に輸出され、世界的な絶賛を浴びた。

薩摩焼の起源と「やきもの戦争」

豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、別名「やきもの戦争」とも呼ばれる。当時、茶の湯の流行を背景に朝鮮半島の優れた陶磁器技術が日本で高く評価されており、西国の大名たちは出兵の際、競って朝鮮の陶工を日本へ連行した。薩摩藩主の島津義弘も、1598年(慶長3年)の撤退時に多数の陶工を連れ帰った。

その中には、後に薩摩焼の基礎を築く沈当吉(初代沈寿官)や朴平意などが含まれていた。彼らは薩摩国の苗代川(現在の鹿児島県日置市)などに定住させられ、地元の土を用いて窯を開いた。これが薩摩焼の起源であり、日本の陶磁器史において画期的な出来事となった。

「白薩摩」と「黒薩摩」という二つの顔

薩摩焼の最大の特徴は、用途と製法が対照的な二つの系統が並存していることである。一つは白薩摩(白もん)と呼ばれるもので、主に藩主の御用窯で焼かれた高級品である。淡い黄白色の生地に透明な釉薬をかけて細かな貫入(ひび割れ)を持たせ、その上に金、赤、緑などで豪華絢爛な絵付け(金襴手)を施した。これらは藩主の愛用品や、幕府・他藩への贈答品として珍重された。

もう一つは黒薩摩(黒もん)である。こちらは鉄分を多く含む火山性の土を用い、黒褐色の釉薬をかけた実用的な陶器であり、庶民の日常の器として親しまれた。代表的なものに、焼酎を温めるための酒器「黒千代香(くろじょか)」がある。支配階級向けの華美な器と大衆向けの素朴な器が独自の発展を遂げた点は、薩摩焼ならではの歴史的背景を示している。

幕末の殖産興業とパリ万国博覧会

江戸時代後期から幕末にかけて、薩摩藩は財政再建と富国強兵を図るため、薩摩焼を重要な輸出品として位置づけた。特に第11代藩主・島津斉彬は、殖産興業政策の要として薩摩焼の改良と増産を強く奨励した。

その真価が世界に示されたのが、1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会である。薩摩藩は江戸幕府とは独立して「薩摩琉球国」の名で参加し、精緻な金襴手が施された巨大な花瓶などの白薩摩を出品した。これがヨーロッパの人々に多大な衝撃を与え、「SATSUMA」の名は日本の高級陶磁器の代名詞となった。この成功は、後のジャポニスム(日本趣味)の流行を牽引するとともに、薩摩藩の国際的な威信を高め、倒幕に向けた政治的影響力の強化にも結びついた。

近代以降への継承と沈寿官家

明治維新後、廃藩置県によって藩の庇護を失った薩摩焼は一時衰退の危機に直面したが、陶工たちの自助努力によって民間産業として再興された。中でも第12代沈寿官は、薩摩焼の技術改良や海外輸出に尽力し、1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会などで受賞を重ね、その名声を確固たるものにした。

朝鮮陶工の末裔たちは、異国の地で幾多の苦難を乗り越えながらも、祖先の技術と誇りを代々受け継いできた。作家・司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』では、第14代沈寿官の半生を通じて、彼らのアイデンティティと望郷の念が克明に描かれている。薩摩焼は単なる伝統工芸品にとどまらず、日本と朝鮮半島の複雑な歴史的交流と、文化融合の象徴として今日に至っている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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Q. 縁切寺として幕府から公認されていた、鎌倉にある臨済宗の尼寺はどこか。
Q. 1943年9月の御前会議で設定された、千島からマリアナ諸島、ニューギニアなどを結ぶ、日本の戦争遂行に不可欠な防衛線を何というか?
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