湊川の戦い

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湊川の戦い (みなとがわのたたかい)

1336年

【概説】
1336年(建武3年/延元元年)、九州から東上してきた足利尊氏の軍勢が、建武政権側の楠木正成・新田義貞の軍を摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市)で破った戦い。この合戦により楠木正成は討死し、足利尊氏による京都制圧と室町幕府の成立、ひいては南北朝の動乱への突入を決定づけた。

建武政権の動揺と足利尊氏の離反

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇によって開始された建武の新政は、公家を重んじ武士を冷遇する政策が多かったため、恩賞への不満などから急速に武家階級の支持を失っていった。このような情勢の中、1335年(建武2年)に北条氏の残党が引き起こした中先代の乱の鎮圧を契機として、足利尊氏は建武政権から離反した。後醍醐天皇は尊氏を追討するため新田義貞を派遣したが、尊氏は箱根・竹ノ下の戦いでこれを打ち破り、翌年正月には京都を占領した。

しかし、奥州から駆けつけた北畠顕家や、楠木正成、新田義貞らの宮方(建武政権軍)の猛攻に遭い、尊氏は京都を追われて西国への敗走を余儀なくされたのである。

尊氏の九州落ちと大軍の再編成

京都を追われた尊氏は、九州へと落ち延びた。1336年(建武3年)3月、筑前国で行われた多々良浜の戦いで菊池武敏ら宮方の軍勢を打ち破ると、またたく間に九州地方を平定することに成功した。さらに尊氏は、持明院統の光厳上皇から院宣を獲得することで「官軍」としての大義名分を手に入れた。

勢力を回復した足利軍は、尊氏が率いる水軍と、弟の足利直義が率いる陸軍の二手に分かれ、西国の武士たちを吸収しながら大軍となって再び京都を目指して東上を開始した。

湊川の激突と楠木正成の最期

足利軍の東上に対し、楠木正成は後醍醐天皇に「新田義貞を退けて尊氏と和睦するか、あるいは一度京都を捨てて比叡山に逃れ、兵站が延びきった足利軍を京都で兵糧攻めにする」という献策を行ったとされる。しかし、天皇や公家衆は「帝都をまたも放棄することは天皇の権威に関わる」としてこの現実的なゲリラ戦法を退け、正成に兵庫への出陣と迎撃を命じた。死を覚悟した正成は、桜井の駅で嫡子の正行を故郷に帰したという逸話(桜井の別れ)が『太平記』に描かれている。

同年5月25日、摂津国湊川において両軍は激突した。足利軍は海陸からの連携攻撃によって宮方を圧倒し、新田軍と楠木軍を分断した。孤立した楠木正成は、弟の正季らとともに足利直義の軍勢に対して獅子奮迅の戦いを見せたが、衆寡敵せず敗北。最期は兄弟刺し違えて自刃し、「七生報国(七度生まれ変わって朝敵を滅ぼし国に報いる)」を誓って果てたと伝えられている。

戦いの歴史的意義と南北朝時代の幕開け

湊川の戦いにおける宮方の敗北は、日本の歴史において極めて重要な転換点となった。新田義貞は敗走し、最大の軍事的障害を取り除いた足利尊氏は再び京都を制圧した。比叡山へ逃れた後醍醐天皇に対し、尊氏は新たな天皇として持明院統の光明天皇(北朝)を擁立し、新たな武家政権の基本方針である建武式目を制定して室町幕府の実質的な開闢を宣言した。

一方、後醍醐天皇は京都を脱出して大和国の吉野へと逃れ、自らが正統な天皇であると主張して南朝を樹立した。これにより、日本国内に二つの朝廷が並立する前代未聞の事態となり、以後約60年にわたって全国の武家社会を二分する南北朝の動乱が本格的に幕を開けることとなったのである。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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