建武式目

1336年、足利尊氏が武家政権の再建に向けた施政方針を17カ条にまとめて示したものを何というか?
カテゴリ:
重要度
★★★

【参考リンク】
建武式目(Wikipedia)

建武式目 (けんむしきもく)

1336年

【概説】
1336年(建武3年)、足利尊氏が新たな武家政権の政治方針を17カ条にまとめて発布した法令。建武の新政の混乱を収拾して天下の政務を執ることを示し、実質的な室町幕府の開府宣言としての役割を果たした。

建武の新政の崩壊と武家政権再興の動き

鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇が開始した建武の新政は、公家偏重や恩賞の不公平、急激な制度改革によって武士たちの強い不満を引き起こした。1335年(建武2年)の中先代の乱を討伐するために東下した足利尊氏は、そのまま新政から離反して武家政権の再興を図ることになる。尊氏は一度は九州に逃れるものの、多々良浜の戦いで勢力を盛り返して東上し、1336年(建武3年)の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成らを破って京都を制圧した。

入京を果たした尊氏は、持明院統の光明天皇を擁立し、後醍醐天皇を吉野へ追いやった(南北朝時代の始まり)。そして、新たな武家の棟梁として社会の混乱を収拾し、政治を主導していくための明確な方針を打ち出す必要に迫られていた。その結果として制定されたのが建武式目である。

起草の経緯と「17カ条」の形式

建武式目は、尊氏が武家政権のあり方について有識者に諮問し、それに対する答申(意見書)という形式をとって発布された。起草にあたったのは、鎌倉幕府で法曹官僚として活躍した二階堂是円(にかいどうぜえん)や中原章済(なかはらあきずみ)、是円の兄であり儒学・漢学に秀でた学僧の玄恵(げんえ)らであった。

条数が全17カ条とされたことには大きな意味がある。これは聖徳太子が定めたとされる「十七条憲法」を模範としたものであり、同時に鎌倉幕府の基本法である「御成敗式目(貞永式目)」が51カ条(17の3倍)であったことを強く意識した意匠である。ここには、古き良き法秩序を重んじ、武家政権の正統な後継者であることをアピールする意図が込められていた。

新政権のマニフェストとしての内容

建武式目の内容は、具体的な訴訟手続きなどを定めた成文法ではなく、新政権が目指す政治道徳や当面の施政方針を掲げた「マニフェスト(政権公約)」の色彩が強い。第一条で「倹約を専らにすべき事」を掲げているのを筆頭に、飲酒や遊興の制限、礼節の重視などが説かれている。

特に注目されるのは、当時の身分秩序を無視した華美な風俗や傍若無人な振る舞いである「ばさら(婆娑羅)」を固く禁じた点である。建武の新政下の社会的な混乱や道徳の退廃を痛烈に批判し、鎌倉幕府初期の質実剛健な気風を取り戻すことが目指された。さらに、有能な人材の登用や、官物の横領禁止、強盗や悪党の鎮圧なども明記され、恩賞の不満や社会不安に悩まされていた武士や民衆の支持を集めるための公平・公正な政治姿勢が強く打ち出されていた。

歴史的意義と室町幕府における位置づけ

建武式目は、新たな法体系をゼロから創設したわけではない。尊氏の政権は、北条泰時が制定した御成敗式目を引き続き武家社会の基本法として採用しており、建武式目はあくまでその精神を継承し、時代の変化に合わせた施政方針を示したものであった。そのため、室町幕府がその後に出した個別の法令は「建武以来追加(けんむいらいついか)」と呼ばれ、御成敗式目の追加法という位置づけで蓄積されていくことになる。

しかし、建武式目が発布された1336年11月をもって、足利尊氏が諸国の武士を統率し、天下の政務を担う意思を公式に表明したとみなされる。それゆえ、征夷大将軍の任命(1338年)に先立ち、この建武式目の制定こそが実質的な室町幕府の開府宣言であると歴史的に評価されている。公家社会の論理を押し付けた建武の新政を否定し、武家社会の慣習と道理に基づいた新たな秩序の構築を高らかに宣言した記念碑的史料である。

室町幕府論 (講談社学術文庫 2767)

最新の研究成果に基づき、権力構造や政治の変遷を解き明かす、室町幕府理解の決定版となる一冊。

図説 室町幕府 増補改訂版

図版と解説が豊富に収められ、将軍の権威や幕府の仕組みを視覚的に理解できる、入門に最適な書。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が武家政治を否定し、天皇中心の政治を目指して開始した新政を何というか?
Q. 古代の武人が身につけた片刃の武器で、鉄剣とともに中期古墳の副葬品の主力となったものは何か?
Q. 株仲間などの特権的商人から幕府が徴収した営業税のうち、一定の基準に従って定期的に納入させたものを何というか?