守護請 (しゅごうけ)
【概説】
室町時代において、守護(守護大名)が荘園領主や国司に代わって、荘園や公領からの年貢徴収と納入を請け負った制度。荘園領主は確実な年貢収入を確保するためにこれを容認したが、結果的に守護による土地の押領を合法化させることとなった。古代から続いた荘園公領制の解体と、守護大名による一国支配(守護領国制)の成立を決定づけた重要な歴史的仕組みである。
守護請成立の歴史的背景
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、悪党の活動や武士の侵出により、公家や寺社といった荘園領主(本所・領家)の支配力は大きく動揺していた。自らの実力で現地から年貢を徴収することが困難になった領主たちは、すでに鎌倉時代から現地の地頭に一定額の年貢納入を請け負わせる地頭請(じとううけ)を行っていた。しかし、室町時代に入ると在地の武士(国人)の独立性がさらに強まり、地頭請だけでは年貢の確保が難しくなった。
そこで荘園領主が頼ったのが、室町幕府から強大な軍事・警察権力を付与され、国内の国人を被官(家臣)として組織しつつあった守護であった。圧倒的な強制力を持つ守護に年貢の徴収と納入を委任(請負)することで、在地武士による押領を防ぎ、わずかであっても確実な収入を得ようとする領主側の苦肉の策として、守護請は急速に普及していったのである。
「半済令」と守護請の密接な関わり
守護請が一般化する過程において、室町幕府が発布した半済令(はんぜいれい)の存在は極めて大きい。観応の擾乱(1350年〜)などの内乱期において、幕府は軍費調達を名目に、荘園や公領の年貢の半分を徴収する権限を守護に認めた。当初は1年限りの年貢の半分という規定であったが、やがて永続化し、さらには年貢だけでなく土地そのもの(下地)を半分に分割する「下地中分」へと変質していった。
土地そのものを武士に奪われることを恐れた荘園領主は、下地の分割を回避するための防衛策として、あえて守護に対して荘園全体の管理と年貢納入を全面的に委ねる「守護請」の契約を結ぶようになった。つまり、半済令という幕府の公的な経済政策が、結果として荘園領主を守護請へと追い込む強力な外圧として機能したのである。
荘園制の解体と守護領国制への道
荘園領主にとって守護請は、名目上の領主権を維持しつつ年貢を得るための妥協策であったが、結果的には「庇を貸して母屋を取られる」事態を招いた。守護請の契約を結んだ守護は、徴税のために守護代や自らの被官(国人)を現地の代官として派遣し、合法的に荘園の内部へと介入する権利を得たからである。
守護は請け負った年貢の一部を自らの収入(得分)としただけでなく、現地での警察権や検断権をも行使し、次第に荘園の実質的な支配権を奪っていった。国衙領(公領)の支配権もすでに吸収していた守護大名は、守護請を通じて荘園をも自らの権力基盤に組み込むことに成功した。このように守護請は、古代から中世を通じて維持されてきた荘園公領制を事実上解体に導き、守護が一国を面的・一元的に支配する守護領国制(しゅごりょうごくせい)を完成させるための決定的なプロセスであったといえる。