南北朝合体(明徳の和約)
【概説】
1392年(明徳3年/元中9年)、室町幕府第3代将軍・足利義満の斡旋により、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲渡し、両朝が統一された出来事。約60年にわたって続いた南北朝の内乱が終結し、室町幕府の全国支配が確立する契機となった。
南北朝内乱の長期化と室町幕府の権力強化
1336年(建武3年/延元元年)に足利尊氏が光明天皇(北朝)を擁立し、後醍醐天皇が吉野へ逃れて南朝を樹立して以来、日本列島は二つの朝廷が並立する未曾有の内乱状態にあった。しかし、14世紀後半に入ると、南朝方は楠木氏など有力な武将の敗北が続き、軍事的な劣勢が明白となっていた。一方、室町幕府では第3代将軍・足利義満が就任し、京都に花の御所を造営したほか、土岐康行の乱や明徳の乱(山名氏清の討伐)などを通じて有力守護大名の勢力を削ぎ、将軍の専制権力を急速に強化していた。幕府の権力基盤が安定するなか、義満は長期化した内乱に終止符を打つべく、南朝との本格的な和平交渉に乗り出したのである。
明徳の和約が提示した三つの条件
1392年、義満は和泉・紀伊の守護であった大内義弘を仲介役として、南朝方に和平条件を提示した。この和睦の取り決めは当時の年号をとって明徳の和約と呼ばれる。提示された主な条件は以下の三点であった。
第一に、南朝の後亀山天皇が京都に帰還し、北朝の後小松天皇へ正統性の証である三種の神器を引き渡すこと。第二に、今後の皇位継承は、大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が交互に天皇を出す両統迭立(りょうとうてつりつ)とすること。第三に、全国の国衙領を大覚寺統の領地とし、長講堂領などの皇室領を持明院統の領地とすることである。軍事的に追いつめられ、もはや単独での存続が困難であった南朝の後亀山天皇は、これらの条件を受諾する決断を下した。
内乱の終結と室町幕府の全盛期
同年閏10月、後亀山天皇は吉野を出立して京都に入り、大覚寺において後小松天皇へ三種の神器を譲渡した。これは形式上は「譲国(じょうこく)の儀」とされたが、実質的には南朝が北朝に吸収される形での合体であった。これにより、半世紀以上に及んだ南北朝の内乱は名実ともに終結した。南北朝合体を成し遂げた足利義満の権威は頂点に達し、公武両界に君臨する絶対的な権力者となった。朝廷の分裂という大義名分の対立が解消されたことで、幕府は全国の武士に対する支配の正統性を確固たるものとし、室町幕府は最盛期を迎えることとなる。
和約の反故と「後南朝」の抵抗
しかし、明徳の和約で結ばれた条件、とりわけ「両統迭立」の約束が守られることはなかった。1412年、後小松天皇は自らの皇子である称光天皇(持明院統)に譲位し、幕府もこれを支持して大覚寺統(南朝)からの即位を黙殺した。また、国衙領の多くも守護大名の押領によって形骸化しており、南朝側の経済的基盤も実質的に保障されなかった。
これに激しく反発した南朝の皇胤や遺臣たちは、再び吉野などで蜂起し、皇位の奪還を目指して武力闘争を展開した。彼らは後南朝(ごなんちょう)と呼ばれ、1443年(嘉吉3年)の禁闕の変(きんけつのへん)で内裏に乱入して三種の神器の一部を奪うなど、15世紀後半に至るまで室町幕府の不安要素としてくすぶり続けることとなった。