上杉氏憲(禅秀) (うえすぎうじのり ぜんしゅう)
生年不詳〜1417年
【概説】
室町時代中期の武将で、関東管領を務めた犬懸上杉家の当主。鎌倉公方である足利持氏と対立して罷免されたことに反発し、1416年に反乱(上杉禅秀の乱)を起こしたが、幕府の支援を得た持氏軍に敗れて自害した人物。
鎌倉公方・足利持氏との対立
上杉氏憲(出家して禅秀)は、関東の最高行政機関である鎌倉府において、鎌倉公方を補佐する関東管領の職(犬懸上杉家)にあった。しかし、若くして第4代鎌倉公方に就任した足利持氏は、自身の権力を強化するため独裁的な姿勢を強め、氏憲ら犬懸上杉家と対立する山内上杉家を重用した。さらに、持氏が氏憲の支持基盤である国人層の所領を没収したことなどで両者の溝は決定的なものとなり、1415年に氏憲は関東管領を辞任して出家し、禅秀と名乗った。
「上杉禅秀の乱」の勃発と歴史的意義
管領を辞任したのちも持氏への不満を抱き続けた禅秀は、持氏と対立していた公方の叔父・足利満隆や持氏の弟である足利持仲、さらには関東周辺の有力国人(千葉氏や武田氏など)を味方に引き入れ、1416(応永23)年10月に挙兵した。この上杉禅秀の乱により、一時は鎌倉を占拠して持氏を駿河国へ敗走させることに成功した。しかし、室町幕府の第4代将軍足利義持が、自らの権威を脅かす存在となる禅秀の動きを警戒し、持氏の支援を決定。幕府の命を受けた駿河守護の今川範政や越後守護の上杉房方らが鎌倉へ攻め寄せると、禅秀らの軍勢は一転して劣勢に陥り、1417年正月に鶴岡八幡宮で自害を遂げた。この乱を契機として、関東における鎌倉公方と関東管領、さらには幕府との間の複雑な対立構図が形成され、のちの「享徳の乱」や関東の戦国乱世へとつながる契機となった。