上杉憲実 (うえすぎのりざね)
【概説】
室町時代中期の武将であり、関東の秩序を担う関東管領。鎌倉公方である足利持氏に仕えてその暴走を諫めたが、対立の末に発生した永享の乱で幕府軍に協力して持氏を討った。武将としての活動の一方で、衰退していた「足利学校」を再興し、中世日本の学問発展に多大な貢献を果たした文化人としても知られる。
鎌倉公方との確執と永享の乱
上杉憲実は山内上杉家に生まれ、1419年にわずか10歳前後で関東管領に就任した。関東管領は、鎌倉府の長である鎌倉公方(当時は足利持氏)を補佐し、関東の政務を司る最高職であったが、持氏と京都の室町幕府との間に対立が生じるにつれて、憲実の立場は極めて困難なものとなっていった。
特に、幕府側で過激な将軍専制を進める足利義教が将軍に就任すると、持氏は露骨な対抗姿勢を見せるようになった。憲実は持氏に対して幕府との協調を熱心に諫言したが、持氏はこれを疎み、かえって憲実が幕府と内通しているのではないかと疑うようになった。身の危険を感じた憲実が領国の上野国(現在の群馬県)に逃れると、持氏は憲実を討伐すべく軍を動かした。これに対して将軍・足利義教は憲実の救援を名目に持氏討伐の命令を下し、1438年に永享の乱が勃発した。憲実は幕府軍と連携して持氏を圧倒し、翌1439年に持氏を鎌倉の永安寺で自害へと追い込んだ。
罪責感による出家と関東の政情変化
乱の平定後、主君を死に追いやったという強い罪責感に苛まれた憲実は、隠退と出家を強く望むようになった。しかし、戦後の混乱を収拾したい将軍・足利義教は憲実の引退を認めず、引き続き関東の政務にあたらせた。直後の1440年には、持氏の遺児である春王丸・安王丸を擁立した結城氏朝が挙兵し、結城合戦が勃発する。憲実はこの乱の平定にも尽力せざるを得ず、再び凄惨な戦乱に直面することとなった。
結城合戦の鎮圧後、持氏の遺児たちが京都への護送途中で斬首されると、憲実の絶望は決定的となった。彼は家督と関東管領職を弟の上杉清方に譲り、一切の政務から身を引いて出家(法名は「昌春」)した。憲実は幕府や一族からの度重なる復帰要請を拒絶し続け、国々を放浪する流浪の旅に出た。この実質的な最高権力者の政界引退は、のちに関東上杉家の一族対立や、持氏の遺児である足利成氏(古河公方)の復権に伴う「享徳の乱」という、東国における戦国時代の本格的な幕開けを招く要因の一つとなった。
文化的業績としての足利学校再興
武将として翻弄された生涯を送った憲実であったが、一方で学問を深く愛する卓越した文化人でもあった。彼の最大の歴史的業績の一つが、下野国(現在の栃木県足利市)に存在した足利学校の再興である。
当時、足利学校はほぼ廃絶しかかっていたが、憲実は領地を寄進して学校の財政的基盤を確立し、さらに宋版をはじめとする多くの貴重な書籍(漢籍)を寄贈して蔵書を充実させた。また、禅僧の快元を初代の「庠主(しょうしゅ=校長)」に招き、自ら「学校規定」を定めて学生たちの学習環境を整備した。憲実のこの熱心な復興策により、足利学校は全国から数多くの学僧や武士が集まり、儒学や易学、兵学などを学ぶ中世日本で最高峰の学術拠点へと成長した。この功績は、のちにキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが足利学校を「坂東の大学(東国のアカデミー)」としてヨーロッパに紹介する礎となった。