代始めの徳政 (だいはじめのとくせい)
【概説】
室町時代中期以降、将軍の代替わりや天皇の即位など、国家的な支配者の交代時に行われた債務破棄(徳政)の慣行。新将軍が「徳治」を行う意志を示すことで社会不安を和らげ、新政権の正当性を誇示する意図があった。しかし実態としては、代替わりの契機を捉えて蜂起した土民(農民や馬借ら)による徳政一揆の圧力に対抗し、秩序を維持するための政治的妥協の産物であった。
徳政一揆の台頭と「代始め」の思想
中世の日本においては、支配者が交代する「代始め」の時期は、前代の「穢れ」や社会的な矛盾を解消し、新たな徳政によって世の中を刷新すべき時であるという社会通念が存在した。借財に苦しむ土民や馬借らは、この観念を盾に取って将軍の死去や就任という代替わりの時期に合わせ、借金の帳消し(徳政)を求めて蜂起するようになった。
1428年(正長元年)に発生した正長の徳政一揆は、称光天皇の崩御と足利義持の没後における後継者決定(足利義教の将軍就任前)という「代始め」の政治的空白期を狙ったものであった。この一揆により、民衆の間には「代始めには徳政が行われるべきである」という、いわゆる「代始めの徳政」の観念が強く定着することとなった。
幕府の譲歩と「徳政令」の恒例化
当初、室町幕府はこうした民衆の要求に対して武力弾圧で臨んだが、1441年(嘉吉元年)の嘉吉の変によって将軍足利義教が暗殺され、幼少の足利義勝が新将軍に就任する「代始め」の混乱に乗じて嘉吉の徳政一揆が勃発した。京都を包囲した数万の土一揆に対し、幕府はついに屈服し、京都や山城国を対象とした公式な徳政令の布告を余儀なくされた。
これ以降、将軍の代替わりごとに徳政一揆が蜂起し、それに対して幕府が「代始めの徳政」として徳政令を発布することが半ば恒例化していった。これは室町幕府の権威が低下し、民衆の実力行使(一揆)を抑え込めなくなったことを如実に示している。
「分一徳政」への変質と幕府財政への影響
応仁の乱以降、戦国時代に入ると、室町幕府の財政は困窮を極めた。この時期になると、幕府は「代始めの徳政」を社会不安の解消ではなく、自らの財源確保の手段として利用するようになる。これが分一(ぶいち)徳政と呼ばれる制度である。
分一徳政とは、債務者または債権者が、債務額の1割(のちに2割)に当たる「分一銭」を幕府に手数料として納付すれば、債務の破棄、あるいは債権の安堵を認めるというものであった。これにより、代始めの徳政は本来の「徳治」としての宗教的・道徳的な意義を失い、幕府が手数料収入を得るための利権取引へと変質していった。