嘉吉の徳政一揆 (かきつのとくせいいっき)
【概説】
1441年(嘉吉元年)、将軍足利義教が暗殺された嘉吉の変の直後に、畿内の土民らが蜂起した大規模な土一揆。新将軍の就任に伴う「代始めの徳政」をスローガンに掲げて京都に乱入した。一揆の勢力に抗しきれなかった室町幕府は要求に屈し、幕府として初となる公式の徳政令を発布した。
将軍暗殺の衝撃と「代始めの徳政」
1441年(嘉吉元年)、室町幕府第6代将軍の足利義教が、有力守護大名である赤松満祐の邸宅で謀殺されるという前代未聞の事件(嘉吉の変)が勃発した。強力な専制政治を敷いていた将軍の突然の横死により、幕府内は深刻な政治的空白と混乱に陥った。この権力中枢の動揺を絶好の機会と捉えたのが、京都周辺の農民や交通・流通業者たちであった。
同年8月、近江国の馬借(ばしゃく)らが蜂起すると、その勢いは瞬く間に畿内一円の土民を巻き込み、数万人規模の大一揆へと発展した。彼らが掲げた大義名分は、新将軍(第7代将軍足利義勝)の就任に伴う「代始めの徳政」であった。中世日本において、天皇や将軍の代替わりは社会秩序がリセットされる節目と認識されており、これに乗じて過去の債務や不当な支配関係の破棄(徳政)を求めるという、中世特有の民衆思想が背景にあったのである。
京都への乱入と一揆の激化
一揆勢は京都に乱入し、高利貸しを営んでいた土倉(どそう)や酒屋、さらには寺院などを次々と襲撃した。彼らは実力行使によって借金証文を破棄し、質草を奪い返す「私徳政(しとくせい)」を断行した。1428年(正長元年)に発生した正長の土一揆においても同様の行動が見られたが、嘉吉の徳政一揆が際立っていたのは、単なる暴動や私徳政にとどまらず、室町幕府に対して「公式な徳政令の発布」を執拗かつ組織的に要求した点である。
幕府初の公式徳政令の発布
幕府は当初、管領の細川持之を中心に武力鎮圧を図ろうとした。しかし、侍所頭人の山名持豊(宗全)ら有力守護大名の多くは赤松氏討伐(嘉吉の乱の平定)のために播磨国へ出兵しており、京都の防衛力は手薄であった。さらに、一揆勢が京都周辺の交通網を封鎖したため、京都は兵糧攻めのような状態に陥った。
事態の収拾が不可能と悟った幕府は、ついに武力鎮圧を断念し、一揆勢の要求を全面的に受け入れた。こうして幕府は、山城国やその周辺を対象とする徳政令(嘉吉の徳政令)を発布した。正長の土一揆の際には、幕府は徳政令を出さずに鎮圧を試みていたが、嘉吉の徳政一揆においては、幕府公式の法令として債務破棄を認めざるを得なかったのである。
室町幕府権力の衰退と徳政の変質
嘉吉の徳政一揆は、室町幕府の権威が決定的に失墜したことを国内外に知らしめる画期的な事件であった。民衆の武力による要求に最高権力者が屈服したという事実は、その後の社会に多大な影響を与えた。
これ以降、畿内では代替わりや飢饉のたびに土一揆が頻発し、幕府に対して徳政を要求するようになる。一方で、幕府側もこの事態を逆手にとり、後に債務額の一定割合(1割や2割)を幕府に納入させることを条件に債権・債務の保護を認める分一銭(ぶいちせん)を伴う「分一徳政令」を発布するようになる。これにより、本来は民衆の救済手段であった徳政令は、財政難にあえぐ幕府の重要な資金調達手段へと変質していくこととなった。