山名持豊(宗全) (やまな もちとよ(そうぜん)
【概説】
室町時代中期の有力な守護大名であり、応仁の乱において西軍の総大将を務めた人物。嘉吉の乱での武功により山名氏の勢力を大きく回復させたのち、細川勝元との熾烈な権力闘争を繰り広げ、将軍家の後継者問題や管領家の内紛に介入して未曾有の大乱を引き起こした。
山名氏の勢力回復と嘉吉の乱
山名氏は室町幕府において四職(侍所の所司を輩出する家柄)に数えられる名門であったが、1391年(明徳2年)の明徳の乱によって幕府に討伐され、かつて「六分の一殿」と呼ばれた広大な領国は大きく削減されていた。しかし、山名時熙の子として生まれた持豊(のちに出家して宗全と号す)の時代に、同氏は大きな転機を迎える。1441年(嘉吉元年)、第6代将軍・足利義教が赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱が勃発すると、持豊は討伐軍の主力として赤松氏を滅ぼす大功を挙げた。これにより播磨をはじめとする旧赤松氏の領国を獲得し、山名氏は再び数カ国を支配する大勢力へと返り咲くこととなった。
細川勝元との結びつきと関係悪化
勢力を回復させた持豊は、幕政を主導する有力管領の細川勝元と当初は協調関係にあった。持豊の養女を勝元の正室とするなど強固な縁戚関係を結び、両者は協力して幕府内で重きをなした。しかし、山名氏の軍事力と政治的影響力が強大化するにつれ、幕府の実権を掌握しようとする勝元との間に次第に摩擦が生じ始める。大和国の国人一揆(筒井氏と越智氏の争い)への介入方針の違いや、瀬戸内海の制海権、さらには日明貿易の利権を巡る対立などが、両者の溝を決定的に深めていった。持豊はその激しい気性と赤ら顔から「赤入道」と呼ばれ、強硬な政治姿勢で勝元陣営と鋭く対立するようになった。
応仁の乱の勃発と西軍の編成
両派の対立は、将軍家および有力守護家の家督争いが絡むことで爆発の時を迎えた。第8代将軍・足利義政の後継者問題において、宗全は義政の正室である日野富子と結び、誕生したばかりの足利義尚を擁立した。同時に、畠山氏の内紛では畠山義就を、斯波氏の内紛では斯波義廉を支援し、細川勝元が支持する勢力(足利義視、畠山政長、斯波義敏)と真っ向から衝突した。1467年(応仁元年)、両陣営の軍勢が京都で激突し、応仁の乱が勃発する。宗全は自派の軍勢を京都の西陣に集結させ、西軍の総大将として約11万とされる大軍を指揮した。
長期化する戦乱と宗全の最期
戦局は当初、軍事力に勝る西軍が優位に戦いを進めたものの、京都を焦土と化す市街戦は次第に膠着状態に陥った。乱の最中、将軍・義政が東軍に身を置いたことで西軍は「賊軍」の汚名を着せられそうになったが、宗全は東軍から出奔してきた足利義視を新たに西軍の総大将(新将軍)として擁立し、徹底抗戦の構えを見せた(これに伴い日野富子・足利義尚は東軍側へ移った)。しかし、大内政弘ら有力大名の参戦によって戦乱が地方へも波及し長期化する中、諸大名の領国では国人層の台頭など下克上の風潮が強まり、宗全自身も自軍を完全に統制することはできなくなっていった。決着を見ないまま、1473年(文明5年)に宗全は陣中で病死した。奇しくも同年には最大の宿敵である細川勝元も病死しており、両軍の指導者を失った応仁の乱はその後、急速に終息へと向かう。宗全の生涯とその死は、室町幕府の権威を完全に失墜させ、日本列島を戦国時代へと引きずり込む歴史的な転換点となったのである。