加賀の一向一揆
【概説】
1488年、加賀国(現在の石川県南部)の一向宗(浄土真宗本願寺派)門徒らが蜂起し、守護の富樫政親を自刃に追い込んだ大規模な宗教的武装蜂起。以後、織田信長の軍勢によって平定されるまでの約100年間にわたり、門徒や有力国人らによる高度な自治体制が維持された。
本願寺蓮如の北陸布教と門徒の爆発的増加
室町時代中期、比叡山延暦寺などの迫害を逃れた本願寺第8代法主の蓮如は、1471年(文明3年)に越前国吉崎(現在の福井県あわら市)に吉崎御坊を建立し、北陸地方での布教を本格化させた。蓮如は平易な手紙形式の教義解説書である「御文(おふみ)」を用い、「講」と呼ばれる信者の寄り合い組織を整備した。当時、惣村の形成が進み自立性を高めていた農民や地侍(国人)たちは、現世での救済と平等な連帯を説く浄土真宗の教えに強く惹きつけられ、瞬く間に強固な宗教的結合を誇る一向宗門徒のネットワークが形成された。
長享の蜂起と守護・富樫政親の滅亡
当時、加賀国では守護の富樫氏が内紛を起こしていた。守護の富樫政親は、弟の幸千代との家督争いに勝利するため、強大な勢力となっていた一向一揆と結びついた。しかし、政親は守護としての権力を確立すると、今度は一向一揆の勢力拡大を恐れて厳しい弾圧に転じた。これに激しく反発した門徒たちは、政親と対立する国人衆とも結託し、1488年(長享2年)に約20万ともいわれる大軍で蜂起した。
一揆勢は政親が籠城する高尾城を完全に包囲し、政親を自刃に追い込んだ(長享の一揆)。室町幕府の第9代将軍・足利義尚は、一介の門徒らが幕府の任命した守護を討ち取ったことに激怒し討伐を企図したが、管領・細川政元らが一揆勢を擁護したため、討伐軍の派遣は断念された。
「百姓の持ちたる国」の誕生と統治構造
政親の死後、一向一揆勢は政親の叔父である富樫泰高を名目上の守護として擁立したが、実質的な支配権は門徒らが握った。この前代未聞の事態は、当時の公家衆から「百姓の持ちたる国」(『実悟記』などの記述)と驚きをもって評された。ただし、ここでいう「百姓」とは単なる農民のみを指すのではなく、地域に土着した有力国人や地侍などの武士層をも内包している。
加賀における自治体制は、本願寺から派遣された一門衆(松岡寺・光教寺・本泉寺などの加賀三ヶ寺)と、各地域を代表する有力国人・門徒代表による合議制によって運営された。この体制は惣国一揆とも呼ばれ、信仰を中核としつつも、地域の治安維持や裁判、年貢の徴収までを独自に行う、中世日本において極めて稀有な「宗教的独立国」の実態を備えていた。
周辺大名との抗争と一向一揆の終焉
加賀を完全に掌握した一向一揆は、その勢力を越前・能登・越中などの周辺地域へと拡大し、越前の朝倉氏や越後の長尾氏(上杉氏)といった戦国大名たちと激しい抗争を繰り広げた。戦国大名にとって、国境を越えて強固に連帯し、死を恐れずに進軍する一向一揆は最大の脅威であった。
16世紀後半に入り、天下布武を掲げる織田信長が台頭すると、本願寺第11代法主の顕如は信長と全面対決に踏み切った(石山合戦)。加賀の一向一揆も本願寺側の有力な軍事拠点として信長軍に激しく抵抗したが、柴田勝家や佐久間盛政らによる苛烈な北陸平定戦の前に次第に劣勢となった。1580年(天正8年)、一揆側の最終拠点であった金沢御坊が陥落し、ついに一揆は平定された。これにより、約100年にわたって加賀の地に君臨した「百姓の持ちたる国」は歴史の幕を閉じたのである。