富樫泰高

富樫政親が自刃したのち、加賀の一向一揆勢力が幕府の介入を防ぐために形式的な守護として擁立した人物は誰か?
カテゴリ:
重要度

【参考リンク】
富樫泰高(Wikipedia)

富樫泰高 (とがしやすたか)

生年不詳〜1515年

【概説】
室町時代後期から戦国時代にかけての加賀国の武将、守護。加賀一向一揆によって守護の富樫政親が滅ぼされた後、一揆勢によって名目上の守護(傀儡)として擁立された人物。

富樫氏の家督争いと一向一揆の台頭

加賀国の在庁官人から守護大名へと発展した富樫氏は、室町時代中期以降、一族間での激しい家督争いを続けていた。富樫泰高もこの内紛に関与し、一時は守護職に就いたものの、甥である富樫成春やその子である富樫政親との間で一進一退の抗争を繰り広げた。この過程で、加賀国内に深く浸透していた浄土真宗本願寺派(一向宗)の門徒組織が、各派閥の軍事力として利用され、次第に国内での政治的発言力を強めていくこととなった。

「百姓の持ちたる国」における傀儡守護としての擁立

1488年(長享2年)、守護の富樫政親が守護権力の強化を図って一向宗の弾圧に乗り出すと、国人領主と本願寺門徒が結託して蜂起した。この加賀一向一揆により、政親は高尾城で自刃に追い込まれる。政親を滅ぼした一揆勢は、室町幕府による追討(一揆鎮圧軍の派遣)を回避し、守護領国としての体裁を維持するために、政親の叔父にあたり、かつて守護の経歴を持っていた泰高を再び守護として擁立した。しかし、泰高には実権はなく、加賀の実質的な支配権は本願寺の「三箇寺」や有力国人らによって握られていた。泰高の擁立は、約100年にわたり一向一揆が加賀を自律的に支配する「百姓の持ちたる国」の体制をカモフラージュするための、名目上の措置であった。

戦国大名論集 (13) 本願寺・一向一揆の研究

戦国大名としての本願寺と一向一揆の政治・軍事構造を多角的に分析し、その実態に迫った専門的な研究論集。

加賀一向一揆五〇〇年: 市民シンポジウム・私にとって一向一揆とは

加賀一向一揆の歴史的意義を市民の視点から紐解き、現代における宗教と自治のあり方を再考する記念すべき一冊。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 1855年、アメリカやロシアなどに続いて、江戸時代から長らく貿易を続けてきたオランダとの間で改めて結ばれた和親条約は何か?
Q. 曹洞宗の開祖である道元が、京都を離れて越前国(福井県)の山中に建立した修行の道場(大本山)はどこか?
Q. 恋多き女性として知られ、敦道親王との恋愛を描いた日記文学を残した、中宮彰子に仕えた女房・歌人は誰か。