酒屋
【概説】
主に室町時代に京都などの都市部で発達した酒造業者。豊富な資金力を背景に高利貸である土倉を兼営する者が多く、室町幕府の重要な財源となった。その一方で民衆から膨大な富を吸い上げたため、徳政を求める土一揆の主要な標的ともなった。
貨幣経済の進展と酒屋の台頭
鎌倉時代後期以降、二毛作の普及などに代表される農業生産力の向上に伴い、日本社会全体に貨幣経済が急速に浸透していった。このような経済的背景のもと、京都や奈良などの大都市では手工業や商業が著しく発達し、その中でも日用品でありながら嗜好品としての需要も高い酒を醸造・販売する酒屋が台頭した。彼らは同業者組合である「座」を結成し、延暦寺や北野社などの有力な寺社や公家を本所(保護者)と仰ぎ、座役という税を納める代わりに販売の独占権や関銭の免除などの特権を得て巨万の富を蓄積していった。
土倉の兼営と室町幕府の財源化
酒屋は商品を販売して大量の銭貨(宋銭や明銭)を日常的に手にする職業であったため、その豊富な手元資金を活用して高利貸しを営む者が続出した。中世における高利貸しは質屋を意味する土倉(どそう)と呼ばれたが、酒屋と土倉は兼業されることが非常に多く、歴史的にも「土倉・酒屋」と一括りにされることが多い。室町時代に入ると、室町幕府は彼らの圧倒的な経済力に目をつけ、本所が持っていた徴税権を強引に奪い取って幕府の直轄とした。幕府は京都の酒屋や土倉に対して酒屋役・土倉役と呼ばれる恒常的な営業税を課し、これを徴収するために納銭方(のうせんかた)という機関を設置した。御料所(直轄地)が少なかった室町幕府にとって、この税収は段銭や棟別銭と並んで幕府財政を支える極めて重要な独立財源であった。
土一揆の標的と徳政令
貨幣経済の浸透は、富裕な商人の台頭を促した一方で、農村部においては農民層の没落や階層分化を招いた。不作や飢饉のたびに農民(土民)や輸送業者である馬借たちは借金を重ね、土倉・酒屋に土地や農具を奪われるなど窮乏を極めた。その結果、借金の帳消し(徳政)を求めて実力行使に出る土一揆が頻発することになる。1428年の正長の土一揆や、1441年の嘉吉の徳政一揆などでは、京都周辺の酒屋や土倉が集中的に襲撃(打ちこわし)され、質物の奪還や借金証文の破棄が行われた。幕府は当初、財源である酒屋・土倉を保護するために一揆を鎮圧しようとしたが、次第に一揆の勢いを抑えきれなくなり、徳政令の発布を余儀なくされた。室町時代後期には、債務者あるいは債権者のどちらかが借金額の一定割合(分一銭)を幕府に納入することで徳政(または徳政の免除)を認める分一徳政令(ぶいちとくせいれい)を乱発するようになり、幕府自らも徳政を口実にして酒屋・土倉から資金を吸い上げるようになった。
戦国期以降の変容
室町幕府と結びついて繁栄を極めた京都の酒屋であったが、1467年に勃発した応仁の乱によって京都の市街地の大半が焦土と化すと、その多くが没落し壊滅的な打撃を受けた。さらに戦国時代に入ると、地方の経済が独自の発展を遂げ、各地の城下町や農村部(郷村)において酒造りが行われるようになった。これにより、特権的商人であった京都の酒屋の優位性は失われ、近世における在郷の「造り酒屋」へと日本の酒造業の主役は移り変わっていくこととなった。