癸亥約条(嘉吉条約) (きがいやくじょう(かきつじょうやく)
【概説】
1443年(嘉吉3年/癸亥の年)に、対馬の守護である宗氏と李氏朝鮮との間で結ばれた通交・貿易に関する協定。朝鮮へ派遣する歳遣船(年間貿易船)の数や、朝鮮から与えられる歳賜豆米の量を制限・規定したものである。この条約により、宗氏を窓口とする室町時代の日朝貿易の基本体制が確立した。
日朝貿易の背景と「応永の外寇」
14世紀以降、東アジアの海域では前期倭寇が猛威を振るっており、高麗から代わった李氏朝鮮は倭寇対策に苦慮していた。朝鮮は倭寇を武力で鎮圧する強硬策と、平和的な通交者に対しては貿易の利益を与えて懐柔する政策(交隣外交)を併用していた。しかし、1419年(応永26年)に朝鮮軍が倭寇の根拠地とみなした対馬を大軍で襲撃する応永の外寇(己亥東征)が発生し、日朝関係は一時的に深刻な冷却化状態に陥った。その後、対馬の有力者であった宗貞盛は朝鮮との関係修復を図り、通交の再開に向けて長年の交渉を重ねることとなった。
条約の締結と主要な規定内容
1443年(日本の嘉吉3年、干支で癸亥の年)、宗貞盛と朝鮮王朝(第4代・世宗)との間で合意が成立し、癸亥約条が締結された。日本の年号を取って嘉吉条約とも呼ばれる。この条約の主な内容は、対馬から朝鮮へ正規に派遣される年間貿易船である歳遣船(さいけんせん)の数を年間50隻に制限すること、そして朝鮮側から対馬島主に対して毎年下賜される食糧(歳賜豆米)を200石と規定することであった。また、対馬以外の地域からの日本人が渡航する場合にも、宗氏が発行する渡航許可証(文引)の持参を義務付けるなど、通交における厳格なルールが定められた。
宗氏の独占的地位と倭寇の統制
この条約が結ばれた最大の背景には、朝鮮側の「限定的な貿易の特権を与える代わりに、宗氏に倭寇の取り締まりを直接担わせる」という外交戦略があった。宗氏はこの協定によって渡航許可証の発行権を握り、実質的に日本からの渡航者を一元的に管理・統制する権限を与えられることになった。結果として、宗氏は日朝貿易における独占的な地位を確立し、対馬は中世東アジア海域における極めて重要な交易拠点として繁栄を享受した。同時に、この通交管理体制が機能したことで、非合法な略奪を行う前期倭寇の活動は次第に沈静化し、平和的な通交・貿易への移行が進展した。
その後の日朝貿易の展開と「三浦の乱」
癸亥約条によって確立された貿易体制は、その後約半世紀にわたり日朝関係の基本ルールとして機能した。朝鮮側は富山浦(ふざんぽ)・乃而浦(ないじほ)・塩浦(えんぽ)の三浦(さんぽ)を開港し、日本人居留民(恒居倭)の定住を認めた。しかし、次第に居留民が増加して密貿易や違法行為が横行するようになり、朝鮮側が統制を強化しようとしたことで対立が激化した。その結果、1510年に居留民が大規模な反乱を起こす三浦の乱が勃発し、日朝関係は再び断絶の危機に直面した。1512年の壬申約条(永正条約)によって貿易は辛うじて再開されたものの、歳遣船は半減の25隻とされるなど、宗氏の特権は大きく制限されていくこととなった。