三浦 (さんぽ)
【概説】
室町時代の日朝貿易において、朝鮮王朝が日本人の居留や交易を認めた朝鮮半島南部の3つの港の総称。乃而浦(ないじほ)、富山浦(ふざんほ)、塩浦(えんほ)を指す。前期倭寇の懐柔と貿易の統制を目的として設置され、長らく日朝間の外交・経済の重要拠点として機能した。
三浦の開港と交隣政策
14世紀後半から15世紀にかけて、朝鮮半島や中国大陸の沿岸部では、日本の海賊集団である前期倭寇が猛威を振るっていた。1392年に建国された朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、この倭寇被害を鎮圧するため、武力討伐(1419年の応永の外寇など)を行う一方で、平和的な交易を求める者には貿易を許可するという「交隣政策」をとった。
その一環として、朝鮮側は入港地を限定して日本の使節や商人を管理・統制する方針を固めた。1407年に富山浦(現在の釜山)と乃而浦(現在の鎮海)が開港され、さらに1426年には塩浦(現在の蔚山)が追加されて、いわゆる「三浦(さんぽ)」の体制が確立した。これにより、室町幕府や有力守護大名、対馬の宗氏を中心とする日朝貿易は飛躍的な発展を遂げることとなる。
三つの港と倭館の機能
三浦に指定された乃而浦(ないじほ/薺浦とも)、富山浦(ふざんほ)、塩浦(えんほ)には、それぞれ日本人使節の接待や貿易、宿泊のための施設である「倭館(わかん)」が設置された。これら三つの港はいずれも対馬から海流に乗って渡航しやすい朝鮮半島南東部に位置しており、貿易船の寄港に最適であった。
本来、倭館は外交使節や商人が一時的に滞在するための客舎であったが、貿易の利益を求めてそのまま定住する日本人が徐々に増加した。朝鮮側も初期のうちは倭寇の懐柔を優先して彼らの定住を黙認しており、これらの定住日本人は「恒居倭(こうきょわ)」と呼ばれた。こうして三浦は一定の治外法権的特権を与えられた日本人居留地としての性格を強め、最盛期には数千人規模の日本人が暮らす巨大な交易都市へと発展した。
恒居倭の増加と朝鮮側の統制強化
日朝貿易が繁栄して恒居倭が増加すると、三浦の居留地は飽和状態となり、現地社会との摩擦が生じるようになった。一部の日本人は指定された区域を越えて農地を不法に開墾したり、密貿易を行ったりと、朝鮮側の法令を無視する行動が目立つようになった。
これに対し、15世紀後半に入り中央集権的な国家体制を強固にしていた朝鮮王朝は、法制の整備に伴って三浦の日本人に対する統制を強化し始めた。居留民に対する厳格な課税の実施や、勝手な移動の制限、さらには過剰な接待費の削減など、さまざまな規制を打ち出したのである。これは、これまで黙認されてきた特権を奪うものであり、恒居倭や貿易によって莫大な利益を得ていた対馬の宗氏らの強い反発を招くこととなった。
三浦の乱と日朝貿易の衰退
朝鮮側の強硬な統制策に対する不満が頂点に達した結果、1510年に三浦の恒居倭が対馬の宗氏の軍事支援を受けて大規模な暴動を起こした。これが三浦の乱である。暴動は一時は朝鮮側の拠点を占拠するほどの勢いを見せたが、最終的には朝鮮の正規軍によって鎮圧された。
この反乱の結果、朝鮮側は三浦を即座に閉鎖し、居留する日本人を追放したため、日朝貿易は一時完全に断絶した。その後、経済的困窮に陥った対馬の宗氏の懇願もあり、1512年に壬申約条(じんしんやくじょう)が結ばれて国交は回復した。しかし、開港場は乃而浦一港のみに制限され、恒居倭の居住も厳禁されるなど、日本側にとって極めて不利な条件が突きつけられた。これにより、室町時代を通じて東アジア海域を活気づけた日朝貿易は大きく制限され、衰退の道を歩むこととなった。