講(室町時代)
【概説】
本来は寺院において仏典を講読する法会などを指した仏教用語であるが、室町時代には一向宗の門徒などが信仰を深めるために結成した地縁的・信仰的な地域組織。
次第に村落の自治機構や相互扶助の基盤、さらには領主権力に対抗する一揆の母体へと発展し、中世社会の変容に多大な影響を与えた。
宗教儀礼から民衆の結社への変容
古代から平安時代にかけての「講」は、宮中や大寺院で僧侶が集まり、経典の講読や論議を行う法会(維摩講や法華講など)を意味していた。しかし、鎌倉新仏教の誕生を経て室町時代に入ると、仏教信仰が広く庶民層にまで浸透し、「講」の性質は大きく変容することとなる。
室町時代における講は、特定の信仰を共有する在地の人々が定期的に集まる信仰集団や結社を指すようになった。彼らは仏事を行うだけでなく、集会の後に酒食を共にする(非時・ひじ)ことで構成員同士の平等を重んじ、連帯感を高めていった。これは、同時代に発達した地縁的共同体である惣村(そうそん)の寄り合いの性格とも深く結びついていた。
蓮如の布教と一向宗における講の組織化
室町時代の「講」の歴史的意義を語る上で欠かせないのが、一向宗(浄土真宗)における講の著しい発展である。本願寺第8世の蓮如は、15世紀後半に畿内や北陸・東海地方で精力的な布教活動を展開した際、信者たちに地域ごとの「講」を結成させる手法をとった。
門徒たちは、宗祖である親鸞の命日に行われる報恩講をはじめ、定期的に道場や有力者の家で寄り合いを開き、蓮如からの書状(御文・おふみ)を読み上げて信仰を深め合った。この一向宗の講は、村落内の信仰的結合を強化すると同時に、惣村の自治組織と一体化することで、極めて強固なネットワークを築き上げた。
村落自治の基盤から「一向一揆」の母体へ
信仰を目的として結成された講は、やがて単なる宗教集会の枠を超え、村内の揉め事の調停、水利や入会地の管理、治安維持など、村落自治の実務を担う場としても機能するようになった。そして、この強固な横のつながりは、戦国騒乱の時代において、守護大名や国人領主の不当な支配に対する抵抗運動の母体へと転化していく。
その最たる例が一向一揆である。長享2年(1488年)の加賀の一向一揆では、講を通じて結集した門徒や地侍たちが守護の富樫政親を自刃に追い込み、以後約1世紀にわたって「百姓の持ちたる国」と呼ばれる高度な自治支配を実現した。講は、中世後期の政治・軍事状況を大きく左右する強大な社会的組織として機能したのである。
多様化する講と社会的・経済的意義
室町時代には一向宗だけでなく、多様な信仰や目的に基づく講が広く形成された。都市部を中心に発展した日蓮宗(法華宗)の信者による法華講(町衆の結合の基盤となり法華一揆を起こした)や、民間信仰と結びついて徹夜で祈りを捧げる庚申講(こうしんこう)、特定の神仏を祀るえびす講などである。
さらに、宗教的な枠組みから派生し、相互扶助を目的として金銭や穀物を融通し合う頼母子講(たのもしこう)や無尽講(むじんこう)といった経済的な互助組織もこの時期に大きく発達した。このように、室町時代の「講」は、宗教・自治・経済の多方面で民衆の生活を根底から支えるシステムであり、自立していく民衆の力と中世社会のダイナミズムを象徴する極めて重要な歴史的用語である。