道南十二館

中世において、北海道南部に進出した和人たちが居住し、防衛や交易の拠点とした12の砦(館)を総称して何というか?
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重要度
★★

道南十二館 (どうなんじゅうにたて)

15世紀

【概説】
室町時代に蝦夷地(現在の北海道)の渡島半島南部に進出した和人が、アイヌとの交易や防衛のために築いた12の城砦(館)の総称。1457年に発生したコシャマインの戦いにおいてその多くが陥落し、和人社会の再編が進む契機となった。その後の松前藩による蝦夷地支配の源流として位置づけられる歴史的遺跡群である。

和人の蝦夷地進出と十二館の誕生

鎌倉時代後期から室町時代にかけて、本州から東北地方を経由して渡島半島南部に移住する和人(本州からの移住者)が増加した。これらは「渡党(わたりとう)」などと呼ばれ、アイヌとの交易を主目的として生活圏を広げ、各地に「館(たて)」と呼ばれる簡易な防衛機能を備えた拠点を築いていった。

これらの中で、室町時代の史料『福山秘府』に記された主要な12の館が「道南十二館」である。これらは東の志濃里(しのり)館(現在の函館市)から西の比石(ひいし)館(現在の上ノ国町)にかけて、沿岸部の交通や交易の要衝に配置されていた。各館を支配する「館主(たてぬし)」たちは、津軽や出羽を本拠とする豪族・安東氏(安藤氏)の統制を受けつつ、アイヌとの交易による利益を背景に独自の勢力を維持していた。

コシャマインの戦いと館の陥落

1457年(康正3年)、アイヌの首長コシャマインを中心とするアイヌ民族の武装蜂起(コシャマインの戦い)が発生した。これは、現在の函館市にあった志濃里館周辺での鍛冶屋とアイヌの少年の間のトラブル(品質と価格をめぐる対立からアイヌの少年が刺殺された事件)を契機とし、日頃から和人の進出や不公正な取引に不満を募らせていたアイヌが一斉に立ち上がったものである。

この組織的かつ強力なアイヌ軍の攻勢の前に、道南十二館は次々と陥落した。東部の志濃里館や箱館、西部の比石館など10の館が破られ、持ちこたえたのは下国守護であった茂別(もべつ)館(北斗市)と、上国守護であった花沢(はなざわ)館(上ノ国町)の2館のみであったとされる。

蠣崎氏の台頭と支配秩序の再編

和人社会の存亡の危機を救ったのが、花沢館主・蠣崎季繁の客将(後に婿養子)であった武田信広(松前氏の祖)である。信広は軍を率いて反撃に転じ、七重浜の戦いにおいてコシャマイン親子を弓矢で射殺して蜂起を鎮圧することに成功した。

この戦功により、信広を擁する蠣崎氏は和人社会における主導権を掌握した。乱を経て他の館主たちの多くが没落、あるいは蠣崎氏の傘下に組み込まれていくことで、それまで個々に割拠していた和人領主たちの政治的統合が急速に進んだ。その後、蠣崎氏は本拠を大館(松前町)へ移し、安東氏からの独立性を高めながら、のちの松前藩へと発展していく。道南十二館は、中世蝦夷地における和人とアイヌの交易・対立の歴史を示すとともに、近世松前藩による支配体制が形成される出発点として極めて重要な意義を持っている。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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