勝山館 (かつやまだて)
【概説】
室町時代後半に渡島半島南部の日本海側に築かれた、和人(本州勢力)の巨大な山城(館)。のちに松前藩の祖となる武田信広が築き、松前(福山)へ拠点を移すまで蠣崎氏(松前氏)の政治・軍事・交易の拠点となった。
「道南十二館」の再編と武田信広の進出
15世紀の蝦夷地(現在の北海道)南部では、津軽海峡を渡って定住した「和人」の活動が活発化し、独自の政治勢力を形成しつつあった。これら和人の拠点となったのが「道南十二館」と呼ばれる館群である。しかし、1457年にアイヌ民族の蜂起であるコシャマインの戦いが勃発すると、十二館のうち10の館が陥落し、和人勢力は壊滅的な打撃を受けた。
この危機を救ったのが、若狭武田氏の出自とされる武田信広であった。信広はコシャマイン親子を射殺して乱を平定し、道南の支配者であった蠣崎氏の婿養子となって実権を握った。信広は1470年代頃、天の川河口近くの高台に強固な防御機能を持つ勝山館を築城し、新たな支配の拠点とした。これは、東日本における戦国時代の幕開けとも連動する、北方の権力形成過程を示す重要な出来事であった。
和人文化とアイヌ文化の交差点としての実態
近年の発掘調査により、勝山館は単なる軍事的な砦(館)ではなく、中世蝦夷地における最大級の交易都市であったことが明らかになっている。本州から運ばれた陶磁器や漆器、金属製品のほか、アイヌ民族がもたらした毛皮や猛禽類の羽などの交易品がここで盛んに取引された。
さらに注目すべきは、館の敷地内からアイヌ民族特有の墓(墓標)や遺物が多数発見されている点である。これは、当時の勝山館において和人とアイヌが混住していた、あるいは極めて密接な関係性を築いていた証拠とされる。後世の松前藩によるアイヌの武力制圧やシャクシャインの戦い(1669年)に代表される厳しい支配関係とは異なり、室町期から戦国期にかけては、両者が相互に依存し協力し合う「共生」の側面が強かったことを勝山館の遺構は雄弁に物語っている。