武田信広 (たけだのぶひろ)
【概説】
室町時代中期の武将で、のちの松前藩主家(松前氏・蠣崎氏)の事実上の祖となった人物。1457年に発生したアイヌの大規模な蜂起「コシャマインの戦い」を鎮圧して和人の危機を救い、渡島半島南部における領主支配の基礎を築いた。
若狭武田氏の出自と蝦夷地への渡海
武田信広の出自については諸説あるが、一般には若狭国(福井県)の守護であった若狭武田氏の一族(武田信賢の弟など)とされる。若狭から陸奥国(青森県)の田名部、そして津軽へと移り、最終的に安東氏(安藤氏)を頼って蝦夷地(北海道の渡島半島)へと渡った。当時の蝦夷地南部には、日本海交易などを目的として進出した和人の拠点である「道南十二館」が形成されており、信広は花沢館(現在の北海道上ノ国町)の館主であった蠣崎季繁(かきざきすえしげ)に身を寄せ、その客将となった。
コシャマインの戦いと信広の武勲
1457年(康正3年/長禄元年)、和人鍛冶とアイヌの青年とのマキリ(小刀)を巡る論争を発端に、アイヌの首長コシャマインが率いる大規模な武装蜂起が発生した(コシャマインの戦い)。組織化されたアイヌ軍の猛攻の前に、道南十二館のうち茂別館と花沢館を除く10の館が次々と陥落し、和人勢力は滅亡の危機に瀕した。この窮地において、信広は和人軍を率いて反撃に転じ、現在の函館市付近の七重浜などでアイヌ軍を撃破。さらにコシャマイン父子を弓矢で射殺して蜂起を鎮圧することに成功した。
蠣崎(松前)氏の成立と歴史的意義
コシャマインの戦いで決定的な戦功を挙げた信広は、蠣崎季繁の婿養子となり、上ノ国の勝山館を築いて本拠とした。信広の活躍は、それまで津軽の安東氏の強い影響下(あるいは間接支配下)にあった蝦夷地の和人社会において、地域独自の領主権力が誕生する契機となった。信広の子孫はのちに松前氏を名乗り、江戸時代には交代寄合から大名(松前藩)へと発展していく。武田信広は、アイヌとの交易や抗争を通じて和人地の支配を確立し、近世松前藩へとつながる北方の支配体制を切り拓いた先駆者として、日本北方史において極めて重要な存在である。