大和猿楽四座 (やまとさるがくよんざ)
【概説】
大和国(現在の奈良県)において興福寺や春日社を本所(保護者)として活動した、猿楽の四つの有力な座の総称。結崎座・外山座・坂戸座・円満井座から構成され、室町時代に観阿弥・世阿弥らを輩出して能を大成させ、現在の能楽の直接の源流となった。
大和猿楽の成立と四つの座
平安時代から鎌倉時代にかけて、寺社の法会や祭礼で滑稽な物真似や曲芸を演じていた猿楽は、次第に専門的な芸能集団である「座(ざ)」を形成していった。大和国においては、同国の事実上の守護であった巨大寺社・興福寺および春日社(現在の春日大社)の庇護下に入り、神事や祭礼での奉仕(神事猿楽)を対価として特権を得る座が誕生した。
当時、日本各地には近江猿楽、丹波猿楽、伊勢猿楽など様々な猿楽の集団が存在していたが、大和国で特に有力な勢力を持ったのが、結崎座(ゆうざきざ)、外山座(とびざ)、坂戸座(さかどざ)、円満井座(えんまんいざ)の四つであった。これらを総称して「大和猿楽四座」と呼ぶ。彼らは興福寺の有力な塔頭などに属し、相互に競い合いながらその芸能を磨いていった。
観阿弥・世阿弥の登場と能の大成
南北朝時代から室町時代初期にかけて、大和猿楽四座の中で結崎座に観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子が登場した。当時の芸能界では、大和猿楽よりも田楽や近江猿楽の方が中央の貴族や武士の間で人気を博していた。しかし観阿弥は、ライバルであった田楽のリズミカルな舞や、近江猿楽が持つ「幽玄(優美さ)」の要素を貪欲に取り入れ、従来の物真似中心の猿楽から、劇的な構成を持つ独自の「猿楽能」へと発展させた。
1374年(応安7年/文中3年)、京都の今熊野神社で彼らの演能を見た室町幕府第3代将軍・足利義満は深く感銘を受け、以後彼らを強力に庇護するようになる。最高権力者の後ろ盾を得たことにより、大和猿楽は単なる地方の寺社芸能の枠を越え、武家政権を象徴する中央の高度な芸術へと飛躍的な発展を遂げることとなった。
江戸幕府の「式楽」としての確立と歴史的意義
大和猿楽は、室町幕府の衰退や戦国時代の動乱期においても、豊臣秀吉など時の権力者から愛好され、厚い保護を受けて命脈を保った。やがて江戸幕府が開かれると、大和猿楽四座は武家の公的な儀式で演じられる式楽(しきがく)に指定された。
江戸時代を通じて、各座の名称は現在の能楽にも連なる観世座(結崎座)、宝生座(外山座)、金剛座(坂戸座)、金春座(円満井座)へと定着していった。幕府の強力な統制と保護の下で彼らは特権的な地位を確立し、後に喜多流が加わって「四座一流」と呼ばれる体制が完成する。大和猿楽四座の歴史的意義は、中世の一大衆芸能であった猿楽を芸術の域まで高め、現代の日本を代表する伝統芸能「能楽」の直接的な礎を築いた点にある。