日親 (にっしん)
【概説】
室町時代中期に活躍した法華宗(日蓮宗)の僧。第6代将軍足利義教に『立正治国論』を献上して他宗派の禁止と法華経信仰を激しく説いた結果、投獄され激しい拷問を受けた。その際に焼けた鍋を頭にかぶせられたという伝説から「鍋かぶり日親」と称され、権力に屈しない布教姿勢は京都の町衆から熱烈な支持を集めた。
強烈な折伏の実践と『立正治国論』
日親は上総国(現在の千葉県)に生まれ、幼くして出家したのち法華宗(日蓮宗)の教えを深く学んだ。室町時代中期の京都では、臨済宗などの禅宗が幕府の庇護を受けて隆盛を極める一方で、新興の商工業者である町衆の間で法華宗が徐々に信仰を広げつつあった。そのような中、京都に上った日親は本法寺を建立し、開祖・日蓮の精神である折伏(しゃくぶく:誤った教えを論破し正法に導くこと)を強力に推し進めた。
当時の室町幕府は、第6代将軍足利義教による専制政治の只中にあった。義教は「万人恐怖」と称されるほど独裁的で苛烈な政治を行っていたが、日親は権力を恐れることなく、1439年(永享11年)に『立正治国論』を著した。これは日蓮の『立正安国論』に倣ったものであり、天下の乱れは将軍が邪宗(他宗派)を保護していることが原因であると断じ、ただちに法華宗に帰依するよう直訴する極めて過激なものであった。
将軍の怒りと「鍋かぶり日親」の伝説
絶対的な権力者であった義教に対し、他宗派の排斥を声高に求める日親の行動は、当然ながら将軍の逆鱗に触れた。日親は直ちに捕縛されて投獄され、本法寺も破却の憂き目に遭う。牢獄において日親は、舌を切られるなどの凄惨な拷問を受けたが、決して自らの信仰と主張を曲げようとはしなかった。
この激しい弾圧の中で生まれたのが「鍋かぶり日親」の伝説である。拷問に屈しない日親に対し、怒り狂った役人が真っ赤に焼けた鉄鍋を頭にかぶせたとされる。この伝説の真偽については諸説あるものの、自らの命を顧みず(不惜身命)、いかなる苦難にも耐え抜く日親の強靭な精神力を象徴する逸話として、後世に広く語り継がれることとなった。
赦免と京都・町衆への教線拡大
1441年(嘉吉元年)、足利義教が守護大名の赤松満祐に暗殺される嘉吉の乱が勃発すると、日親はようやく赦免されて牢獄から解放された。出獄後は本法寺を再興し、再び精力的な布教活動を開始した。彼の教線は京都にとどまらず、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)など九州地方にまで及んだ。
日親の最大の歴史的意義は、時の最高権力者の弾圧にも屈しないその強烈な生き様が、当時の京都で経済力をつけつつあった自立的な町衆の気風と深く結びついた点にある。現世での救済を説き、困難に立ち向かう法華宗の教えと日親のカリスマ性は、商工業者を中心に熱狂的な支持を獲得した。この日親の蒔いた種が、戦国時代の京都において法華宗が巨大な勢力となり、やがて強大な自治組織を生み出す天文法華の乱(法華一揆)へと繋がる重要な精神的基盤を形成したのである。