惣追捕使 (そうついぶし)
【概説】
鎌倉時代初期に源頼朝によって国ごとに設置された、治安維持や軍事指揮を担う臨時の役職。平氏滅亡後に鎌倉殿の主導で全国へ配置され、のちの守護へと発展した武家官職。
「文治の勅許」と惣追捕使の設置背景
1185(文治元)年、壇ノ浦の戦いによって平氏を滅ぼした源頼朝であったが、その後、弟である源義経や叔父の源行家との対立が表面化した。義経らが後白河法皇から頼朝討伐の宣旨を得て挙兵を図ると、頼朝はこれを反逆とみなし、大軍を京都に送って朝廷を圧迫した。
このとき、頼朝の代官として上洛した北条時政の要求により、朝廷が認可したのが「文治の勅許」である。これにより、義経らの捜索・逮捕を名目として、国ごとに「惣追捕使」、荘園や公領ごとに「地頭」を設置する権利が頼朝に与えられた。従来、追捕使は特定の事件や反乱のたびに朝廷から宣旨を得て派遣される臨時の官職であったが、頼朝はこの制度を利用し、自らの配下である御家人を恒常的な警察・軍事指揮官として国単位で配備するシステムを構築したのである。
守護への移行と歴史的意義
惣追捕使の職務は、当初は謀叛人である義経らの捜索や、国内の武士(御家人)を統率しての警備活動が中心であった。しかし、時が経ち事態が安定するにつれて、この職制は恒久化され、1190年代頃からは「惣追捕使」に代わって「守護」という呼称が一般化していくことになる。
惣追捕使(のちの守護)の権限は、後に「大犯三箇条(たいはんさんかじょう)」と呼ばれる、謀叛人の逮捕、殺害人の逮捕、および鎌倉や京都の警備を担う「大番催促(おおばんさいそく)」へと集約されていった。この役職の設置は、それまで東国を中心としていた鎌倉幕府の支配権(軍事・警察権)を、西国を含む日本全国へと一挙に拡大させる重要な契機となり、武家政権としての鎌倉幕府の基礎を決定づけるものとなった。