兵粮米 (ひょうろうまい)
【概説】
文治元年(1185年)の「文治の勅許」に基づき、鎌倉幕府が設置した地頭に対して、荘園や公領の田畑から徴収することを認めた兵糧(食料)。段別(反別)5升の割合で一律に徴収され、初期幕府の財政的・軍事的基盤となったが、荘園領主層の激しい反発を招いた。
文治の勅許と兵粮米の成立背景
壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした源頼朝は、その後、弟である源義経と対立した。義経が後白河法皇から頼朝討伐の宣旨を得て逃亡すると、頼朝はこれを奇貨として、義経捜索と諸国の治安維持を大義名分に掲げ、朝廷に対して強硬な交渉を行った。これが文治元年(1185年)11月の文治の勅許である。
頼朝の名代として京都に乗り込んだ北条時政は、朝廷に対して諸国への守護・地頭の設置を認めさせるとともに、その活動や軍事行動を支えるための財政基盤として、兵粮米の徴収権を獲得した。本来は一時的な軍事費調達という名目であったが、東国に拠点を置く鎌倉幕府の権力を日本全国、特に西国へと浸透させるための極めて政治的な措置であった。
「段別五升」の衝撃と地頭の現地支配
兵粮米の徴収規定は、荘園や公領を問わず、田畑1段(反)あたり5升と定められた。一見するとわずかな量に思えるが、当時の農業生産力や税率から見れば無視できない負担であり、何よりも「公領・私領を問わず一律に徴収する」という点が極めて画期的であった。
従来の荘園公領制においては、貴族や大寺社などの荘園領主が現地での不入権(国使などの立ち入りを拒否する特権)を盾に、独自の課税・支配権を維持していた。しかし、幕府が任命した地頭が「兵粮米の徴収」を名目に荘園内に立ち入り、検注(土地調査)や徴収活動を行うようになったことで、荘園領主の支配権は根本から脅かされることとなった。地頭は、この徴収権を最大の武器として、現地の武士や農民に対する支配力を急速に強めていった。
荘園領主の反発と兵粮米の停止
当然ながら、兵粮米の徴収は荘園領主である京都の公家や大寺社から猛烈な反発を招いた。当時の右大臣・九条兼実は、日記『玉葉』の中でこれを「天下の滅亡」と激しく非難している。彼らにとって、幕府による一律の兵粮米徴収は、自らの経済的基盤である荘園制度そのものを破壊しかねない暴挙に映ったのである。
義経の脅威が薄れ、朝廷や貴族層との融和を図る必要が生じると、頼朝は方針の妥協を余儀なくされた。文治2年(1186年)3月、幕府は平氏の旧領(平家没官領)や謀反人の跡地などに設置された地頭を除き、一般の荘園や公領における兵粮米の徴収を停止した。しかし、徴収自体は短期間で停止されたものの、守護・地頭という制度そのものは維持され、後の鎌倉幕府が全国を支配する土台となった。兵粮米の徴収は、武家権力が朝廷の支配機構に風穴を開けた、象徴的な出来事であったといえる。