後鳥羽上皇
【概説】
鎌倉時代前期の第82代天皇であり、退位後に強力な院政を敷いて朝廷権力の復興を図った上皇。鎌倉幕府の勢力拡大を警戒し、1221年に執権・北条義時追討の兵を挙げて承久の乱を起こした。しかし幕府軍に敗れて隠岐島に配流され、武家政権が朝廷を圧倒する決定的な歴史的転換点を作ることとなった。
三種の神器なき異例の即位
治承・寿永の乱(源平合戦)の最中である1183年、平氏一門が安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へ都落ちしたため、後白河法皇の院宣によりわずか4歳で即位した。三種の神器がないままの即位は極めて異例であり、のちに壇ノ浦の戦いで宝剣が海に沈んで失われたことは、後鳥羽天皇の生涯に深いコンプレックスとして影を落としたとされる。1192年に後白河法皇が崩御すると、源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉幕府が本格的に成立した。若き天皇の治世は、まさに公家政権から武家政権への過渡期と重なっていた。
多才なる専制君主と院政の展開
1198年、19歳で長男の土御門天皇に譲位し、上皇として院政を開始した。後鳥羽上皇は政治的指導力に優れていただけでなく、和歌や管弦、蹴鞠、さらには刀剣の制作に至るまで、多芸多才な帝として知られている。特に和歌においては、藤原定家らに命じて『新古今和歌集』を編纂させた文化的功績が大きい。
一方で、失われつつある朝廷の権威回復と軍事力の強化にも腐心した。白河上皇が創設した北面武士に加え、新たに独自の直属軍である西面武士を設置して武力を蓄えた。また、各地の荘園を自らの領地(長講堂領や八条院領など)として集積し、皇室の経済基盤をかつてないほど強固なものにした。
承久の乱の勃発と敗北
鎌倉幕府では頼朝の死後、御家人同士の内部抗争が続いていた。1219年、第3代将軍・源実朝が暗殺されて源氏将軍の正統が断絶すると、後鳥羽上皇はこれを幕府打倒の絶好の機と捉えた。幕府からの新たな親王将軍を迎える要請を拒否し、朝廷と幕府の緊張関係は一気に高まった。
そして1221年(承久3年)、上皇はついに全国の武士に向けて執権・北条義時追討の院宣を発し、承久の乱を引き起こした。上皇は「朝敵」のレッテルを貼れば御家人は幕府から離反すると計算していた。しかし、北条政子の演説によって鎌倉の武士たちは結束を固め、北条泰時・時房率いる19万とも言われる幕府の大軍が京都へ進軍した。結果として朝廷軍は各地で撃破され、わずか1ヶ月余りで乱は幕府側の圧勝に終わった。
隠岐への配流と歴史的意義
敗れた後鳥羽上皇は出家を余儀なくされ、日本海に浮かぶ隠岐島(現在の島根県)へと配流された。ともに乱を主導した順徳上皇は佐渡島へ、関与が薄かった土御門上皇も自ら望んで土佐国(のち阿波国)へ流され、当時在位していた幼い仲恭天皇は廃位されるという、朝廷にとって前代未聞の厳しい処置が下された。上皇は二度と都の土を踏むことなく、1239年に配流先で生涯を閉じた。
承久の乱による後鳥羽上皇の敗北は、日本の歴史において極めて重要な転換点である。幕府は京都に六波羅探題を設置して朝廷の監視を強め、皇位継承にも露骨に介入するようになった。また、上皇方についた西国の貴族や武士の領地約3000ヶ所が没収され、戦功を挙げた東国武士が新補地頭として配置された。これにより、鎌倉幕府の支配権は西日本にも深く浸透し、武家政権が公家政権を完全に凌駕する体制が決定づけられたのである。