順徳上皇

承久の乱において父・後鳥羽上皇の討幕計画に積極的に加担し、敗戦後に佐渡島へ流罪となった上皇は誰か?
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★★★

【参考リンク】
順徳天皇(Wikipedia)

順徳上皇

1197〜1242

【概説】
鎌倉時代前期の第84代天皇、のちに上皇。父である後鳥羽上皇の倒幕計画に強く同調して承久の乱を引き起こしたが、鎌倉幕府軍に敗北し、佐渡島へと配流された。和歌や有職故実の探求に尽力した優れた文化人としての側面も持ち合わせている。

後鳥羽院政下の天皇としての即位

順徳上皇(諱は守成)は、後鳥羽天皇の第三皇子として建久8年(1197年)に誕生した。母は藤原範季の娘である重子(修明門院)である。建仁3年(1203年)に立太子し、承元4年(1210年)、父・後鳥羽上皇の強い意向により、異母兄の土御門天皇から譲位を受けて第84代天皇として即位した。

当時の朝廷は後鳥羽上皇による専制的な院政が敷かれており、若き天皇に政治的実権はなかった。しかし、温和な性格であった兄の土御門天皇に対し、順徳天皇は父に似て気性が激しく積極的であったため、後鳥羽上皇から深く愛され、その思想や鎌倉幕府への反抗心を色濃く受け継ぐこととなった。

承久の乱への傾倒と譲位

鎌倉幕府では源頼朝の死後、北条氏が台頭して実権を掌握しつつあり、朝廷(後鳥羽上皇)と幕府(北条義時)との間には水面下で緊張関係が高まっていた。建保7年(1219年)の源実朝暗殺を契機に、後鳥羽上皇は幕府打倒の決意を固める。順徳天皇はこの父の計画に深く賛同し、倒幕の急先鋒として動いた。

承久3年(1221年)4月、倒幕の挙兵を目前に控えた順徳天皇は、自由な立場で軍事・政治工作に専念するため、わずか3歳の我が子・懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自らは上皇となった。そして同年5月、後鳥羽上皇とともに北条義時追討の院宣を発し、承久の乱を引き起こしたのである。

幕府軍への敗北と佐渡配流

朝廷側は、幕府内部の動揺を期待して挙兵したものの、北条政子の演説によって結束を固めた鎌倉武士たちの強烈な反撃を受けた。北条泰時・時房らが率いる圧倒的な幕府の大軍の前に、朝廷軍は各地で連戦連敗を喫し、わずか1ヶ月足らずで京都を占領されるという惨敗に終わった。

戦後、幕府による厳しい処断が行われ、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島へ、倒幕を積極的に推し進めた順徳上皇は佐渡島へと配流された(なお、倒幕に消極的であった土御門上皇は自ら望んで土佐国、のちに阿波国へ移っている)。また、即位したばかりの仲恭天皇も廃位された。順徳上皇は佐渡での配流生活を20余年送り、京都への帰還を熱望しながらも叶うことはなく、仁治3年(1242年)に同地で崩御した。一説には、帰京への絶望から絶食して自害したとも伝えられている。

文化人・学者としての多大な功績

順徳上皇は政治的・軍事的には敗北を喫したものの、優れた文化人・学者としての功績は日本文化史において高く評価されている。和歌においては藤原定家らに師事して非凡な才能を見せ、『新古今和歌集』の編纂事業にも関与した。配流先の佐渡でも多くの和歌を詠み、歌学書である『八雲御抄(やくもごしょう)』を著して当時の歌壇に大きな影響を与えた。

さらに、有職故実(朝廷の伝統的な儀式や作法、法制などの知識)の探求にも極めて熱心であった。上皇が著した『禁秘抄(きんぴしょう)』は、天皇の日常生活や宮中の儀式作法を詳細に記した秘伝書であり、後世の朝廷において最も権威ある有職故実の指南書として重んじられた。彼が歴史に名を残したのは、承久の乱の敗者としてだけでなく、王朝文化の粋を後世に伝えた卓越した知識人としての側面があったからである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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