土佐
【概説】
現在の高知県にあたる南海道の令制国。1221年の承久の乱の後、倒幕計画に関与していなかった土御門上皇が、父や弟の配流に心を痛めて自ら望んで赴いた配流地として知られる。
古代・中世における流刑地としての土佐
土佐国は、現在の高知県にあたる南海道の一国である。北には険峻な四国山地がそびえ、南は太平洋に面するという地理的条件から、古代より都から遠く離れた辺境の地と認識されていた。律令制下においては、罪人を遠方に追放する遠流(おんる)の地の一つとして定められており、政争に敗れた貴族や皇族がしばしば流される場所であった。
都から隔絶された環境は、中央の権力者にとっては政敵を隔離するのに最適であった。しかし同時に、高貴な身分を持つ配流者が滞在したことで、土佐には都の高度な文化がもたらされるという側面も持ち合わせていた。
承久の乱と三上皇の配流
鎌倉時代初期の1221年(承久3年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権・北条義時を討伐すべく挙兵した承久の乱が勃発する。しかし、幕府軍の圧倒的な兵力の前に朝廷軍はあえなく敗北し、乱の首謀者に対する厳しい処分が下された。
この結果、主謀者である後鳥羽上皇は日本海に浮かぶ隠岐国(島根県)へ、乱に積極的に加担した弟の順徳上皇は佐渡国(新潟県)へとそれぞれ配流された。天皇や上皇が島流しにされるという事態は、武家政権の優位を決定づける前代未聞の出来事であった。
自ら土佐への配流を望んだ土御門上皇
これら二人の上皇とは対照的な運命を辿ったのが、後鳥羽上皇の第一皇子である土御門上皇である。温和な性格であった土御門上皇は、父の強硬な倒幕計画には一貫して反対、あるいは関与していなかったとされる。そのため、鎌倉幕府も土御門上皇に対しては処罰の対象外とし、京に留まることを認めていた。
しかし、父(後鳥羽)や異母弟(順徳)が絶海の孤島に流罪となる中、自分だけが都で平穏に暮らすことは忍びないと深く心を痛めた土御門上皇は、自ら都を離れることを幕府に申し出た。幕府はこれを慰留したものの、上皇の意志は固く、自ら望んで土佐国へと赴くことになったのである。幕府も上皇の心情を慮り、罪人としてではなく丁重な扱いで護送を行った。
阿波国への移転と土佐の歴史的意義
土佐国に到着した土御門上皇は、現在の高知県西部に位置する幡多(はた)地方などに居住したと伝えられている。しかし、都から遠く離れた辺鄙な地での生活を不憫に思った幕府は、のちに少しでも都に近い阿波国(徳島県)へ上皇を移転させる措置をとった。土御門上皇は阿波の地で余生を過ごし、1231年に同地で崩御した。
承久の乱における「土佐」は、土御門上皇の高潔な人柄と悲劇性を象徴する舞台として日本史に名を残している。その後も、建武の新政崩壊後に後醍醐天皇の皇子である尊良親王が流されるなど、土佐は中世を通じて権力闘争の敗北者を受け入れる地としての役割を担い続けた。こうした歴史的背景は、後に長宗我部氏による四国平定や、幕末の土佐藩における尊王攘夷運動へと連なる独自の精神的土壌を育んでいったと考えられている。