南宋
【概説】
靖康の変による北宋滅亡後、中国南部(江南)を支配した漢民族の王朝。日本とは平氏政権や鎌倉幕府の時代を通じて活発な海上交易(日宋貿易)が行われ、経済や文化に多大な影響を与えた。1279年にモンゴル帝国(元)によって滅ぼされた。
南宋の成立と東アジア情勢
1127年、女真族の建てた金によって首都の開封を落とされ、北宋が滅亡した(靖康の変)。この難を逃れた高宗が江南へ渡り、臨安(現在の杭州)を都として再建した王朝が南宋である。領土は中国南半に縮小したものの、長江流域の豊かな農業生産力と発達した商工業を背景に、極めて高度な経済力と文化を誇った。また、北方の陸路が金に塞がれたため海運が飛躍的に発達し、東アジアの海上交易網の中心的な存在となった。
平氏政権と日宋貿易の本格化
日本史において南宋が持つ最大の意義は、日宋貿易を通じた経済・文化への多大な影響である。平安時代末期、平清盛は日宋貿易の莫大な利益にいち早く着目した。清盛は摂津国の大輪田泊(現在の神戸港の一部)を修築し、博多に留まっていた南宋の商船を瀬戸内海へ直接招き入れた。さらに後白河法皇を宋の商人と引き合わせるなど、国家的な事業として貿易を強力に推進した。日本からは砂金、硫黄、水銀、刀剣などが輸出され、南宋からは陶磁器、絹織物、書籍、香木、そして大量の銅銭が輸入された。
鎌倉時代の交流と宋銭の流入
平氏滅亡後、鎌倉幕府を開いた源頼朝も日宋貿易を黙認・保護したため、日宋間の交流は民間レベルを中心としてさらに活発化した。鎌倉時代中期以降には、寺社の造営や修復費用を捻出するために寺社造営料唐船が公式に派遣されるようになる。
南宋との貿易で特筆すべきは、大量の宋銭(銅銭)の流入である。当時、日本国内では朝廷による公的な貨幣鋳造が途絶えていたため、輸入された宋銭がそのまま日本国内の通貨として流通するようになった。これにより、年貢を銭で納める代銭納が普及し始めるなど、日本の貨幣経済の発展が大きく促進されることとなった。
南宋文化の伝来と日本への影響
経済面のみならず、文化面でも南宋は日本に計り知れない影響を与えた。鎌倉時代初期、栄西や道元といった日本の僧侶が南宋へ渡り、中国で隆盛していた禅宗(臨済宗・曹洞宗)を伝えた。同時に、栄西によって喫茶の風習がもたらされ、これが後の茶道へと発展していく。
建築分野では、重源が東大寺再建の際に取り入れた大仏様(天竺様)や、禅宗寺院とともに伝わった禅宗様(唐様)など、南宋の新しい建築様式が導入された。さらに、南宋の朱熹(朱子)によって大成された新しい儒学である朱子学(宋学)もこの時代に日本へ伝来し、後の室町・江戸時代の思想に多大な影響を与えた。
元の台頭による滅亡と元寇への影響
13世紀後半、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国(元)のフビライ・ハンが南宋に侵攻を開始する。長年の抗戦の末、1276年に首都・臨安が陥落し、1279年の崖山の戦いによって南宋は完全に滅亡した。
南宋の滅亡は、日本にも直接的な危機をもたらした。元は南宋を征服したことで、その強大な水軍と造船技術を吸収し、1281年の弘安の役(2度目の元寇)においては、旧南宋軍を中心とした10万人規模の「江南軍」を日本へ差し向けている。その一方で、元の侵攻を逃れて日本へ亡命してきた蘭渓道隆や無学祖元といった南宋の高僧たちは、北条時頼や時宗ら鎌倉幕府の首脳に篤く帰依された。彼らは武家社会に大陸の最先端の禅宗文化をもたらし、日本の中世文化を豊かに彩る役割を果たしたのである。