平禅門の乱

1293年の鎌倉大地震の混乱に乗じ、北条貞時が強大な権力を振るっていた内管領・平頼綱とその一族を滅ぼした事件を何というか?
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重要度
★★

【参考リンク】
平禅門の乱(Wikipedia)

平禅門の乱 (へいぜんもんのらん)

1293年

【概説】
鎌倉時代後期の1293年(正応6年)、9代執権・北条貞時が、幕政の実権を握り専横を極めていた内管領の平頼綱一族を滅ぼした政変。これによって頼綱による恐怖政治は終焉を迎え、執権貞時による得宗親政が開始される契機となった。

霜月騒動と平頼綱による権力掌握

1285年(弘安8年)に起きた霜月騒動において、有力御家人である安達泰盛を打倒した得宗被官(御内人)の筆頭・平頼綱は、幼少の執権・北条貞時を擁して幕政の実権を完全に掌握した。頼綱は出家して「禅門」と称し、内管領(得宗家の執事)の立場から強大な権力を振るうようになった。

頼綱の政治は、独自の特権的地位を利用して御家人層を圧迫するものであり、反抗的な分子を次々と処刑・流罪に処す恐怖政治であった。さらに頼綱は、自らの次男である飯沼資宗を重用し、長男の宗綱を佐渡へ配流するなど、一族の内部でも強権的な支配体制を強め、その勢力は得宗家(北条本家)を脅かすほどに急速に膨張していった。

鎌倉大地震の混乱と貞時のクーデター

成長した執権・北条貞時は、自らの傀儡化を進める平頼綱に対して危機感を募らせ、主導権の奪還を狙っていた。その機会は、突如として訪れた天変地異によってもたらされることとなる。

1293年(正応6年)4月12日、鎌倉を大地震(鎌倉大地震)が襲い、幕府の要人や都市機能はパニックに陥った。貞時はこの混乱に乗じ、地震から10日後の4月22日、兵を動かして鎌倉・経師ヶ谷にある頼綱の邸宅を急襲させた。この電撃的なクーデターにより、平頼綱とその次男・資宗らの一族、および彼らに従う多くの御内人が討伐され、頼綱一派は一挙に壊滅した。この事件は、頼綱の通称にちなんで「平禅門の乱」と呼ばれている。

得宗親政の展開と幕府体制のゆらぎ

平頼綱を排除した貞時は、それまで内管領に握られていた実権を取り戻し、自ら政務を執る得宗親政をスタートさせた。貞時は、霜月騒動で没落した安達氏ら有力御家人の一族を復帰させるとともに、元寇後の社会不安や生活苦に喘ぐ御家人を救済するため、1297年(永仁5年)に永仁の徳政令を発布するなど、積極的な幕政改革(正応・永仁の徳政)を推進した。

しかし、この乱によって御内人の勢力が完全に一掃されたわけではなかった。貞時による親政も次第に行き詰まりを見せ、後年には再び内管領の長崎氏が台頭するなど、得宗家と御内人の二重権力構造は解消されなかった。平禅門の乱は、得宗専制政治の頂点において生じた、執権(得宗家当主)と内管領の主導権争いの一局面であり、鎌倉幕府の支配基盤が徐々に崩壊へと向かう過程を示す事件であったと言える。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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