備前国福岡の市 (びぜんのくにふくおかのいち)
【概説】
『一遍上人絵伝』に描かれたことで有名な、備前国(現在の岡山県瀬戸内市)の吉井川河川敷で開かれた市場。水陸交通の結節点として大いに賑わい、中世における商業や貨幣経済の発展、多様な人々の交流を今に伝える重要な歴史的舞台である。
吉井川の河川敷に成立した水陸交通の要衝
備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町福岡)は、中国山地から瀬戸内海へと注ぐ吉井川の下流域に位置する。当時の福岡は川の中州や河川敷に形成された集落であり、内陸部の農産物や手工業品を積んだ高瀬舟などの川船と、瀬戸内海を行き交う海船が接岸する水上交通の要衝であった。また、陸上交通の要道である山陽道にも近接していたため、水陸の交通網が交差する物流の結節点として自然発生的に市場が形成された。鎌倉時代に入ると、農業生産力の向上や手工業の発展を背景に定期市(三斎市など)が各地で開かれるようになるが、福岡の市はその代表格として西日本屈指の規模を誇った。
『一遍上人絵伝』に描かれた中世市場の姿
福岡の市が日本史において特に重要視されるのは、正安元年(1299年)に成立した国宝『一遍上人絵伝(一遍聖絵)』にその賑わいが精緻に描かれているためである。時宗の開祖である一遍は、弘安年間(1278〜1288年)にこの地を訪れ、市場の群衆を前に踊念仏を行った。絵巻には、粗末な小屋掛けや見世棚(市棚)を並べて商売を行う商人たちの姿が生き生きと描写されている。並べられている商品は、米や麦などの穀物、布帛、陶器、海産物など多岐にわたり、当時の流通経済の豊かさを視覚的に確認できる第一級の史料となっている。
貨幣経済の進展と多様な階層の交錯
市場の描写からは、単なる物々交換にとどまらない中世社会の経済的発展が読み取れる。絵巻の中には、宋銭と推測される銅銭を数える人物や、代金を支払う様子が描かれており、鎌倉時代後期において貨幣経済が地方の市場にまで深く浸透していたことがわかる。さらに、市場には商人や農民だけでなく、武士、僧侶、女性、子供、そして非人や病者など、身分や階層を超えた多様な人々が集っていた。中世の「市(いち)」は、世俗の権力や身分秩序から一時的に切り離された「無縁(むえん)」の場としての性質を持っており、一遍がそのようなアジール(避難所・自由領域)的な空間を布教の場として選んだことも、宗教史的観点から極めて興味深い。
後の歴史への影響と「福岡」地名の由来
鎌倉時代に隆盛を極めた福岡の市は、室町時代から戦国時代にかけても備前国を代表する商業都市として発展を続けた。戦国期には、のちに豊臣秀吉の軍師として活躍する黒田孝高(官兵衛)の曾祖父・黒田高政がこの地に移り住み、武士でありながら目薬の商いなどで財を成したと伝えられ、黒田氏飛躍の原点となっている。その後、黒田氏が関ヶ原の戦いの功績によって筑前国(現在の福岡県)に封じられた際、新天地に築いた城と城下町を、祖先のゆかりの地である備前福岡にちなんで「福岡」と命名した。現在、九州最大の都市である「福岡」の地名は、この吉井川河川敷の中世市場に由来しているのである。