栄西 (えいさい / ようさい)
【概説】
日本における臨済宗の開祖であり、南宋から禅宗とともに茶の種を持ち帰った鎌倉時代前期の僧。旧仏教からの弾圧を受けながらも鎌倉幕府の保護を得て、京都に建仁寺を開創した。日本の仏教界に新風を吹き込むとともに、喫茶の風習を武家や公家に定着させた文化的な功績も極めて大きい。
比叡山での修学と二度におよぶ入宋
栄西は備中国(現在の岡山県)の神職の家に生まれ、14歳で比叡山延暦寺に入り天台宗を学んだ。しかし当時の比叡山は、僧兵を擁して朝廷へ強訴を繰り返すなど世俗化が著しく、本来の仏教の姿を見失いつつあった。真の仏法を求めた栄西は、1168年に初めて南宋へ渡航する。この一度目の入宋は半年ほどの滞在で天台宗の経典などを持ち帰るにとどまったが、1187年に再度入宋を果たす。当初は仏教の発祥地であるインドへの巡礼を志したものの許可が下りず、天台山などの名刹を巡ったのち、虚庵懐敞(きあんえしょう)に師事して臨済宗黄龍派(おうりゅうは)の禅を修めた。ここで印可(師匠から悟りの証明を受けること)を得た栄西は、1191年に日本へ帰国し、本格的に禅宗の布教を開始した。
旧仏教の弾圧と『興禅護国論』の執筆
帰国した栄西はまず九州の博多などを拠点に布教を行ったが、間もなく比叡山を中心とする旧仏教勢力から猛烈な反発を受けた。延暦寺は朝廷に働きかけ、禅宗の布教停止を命じる宣旨を出させるなど激しい弾圧を加えたのである。これに対し、栄西は1198年に『興禅護国論』を著して反論を試みる。同書の中で栄西は、「禅は天台宗の教えと対立するものではなく、むしろ形骸化した仏教を復興させ、国家を鎮護するための要である」と主張し、禅宗の正統性と国家に対する有益性を論理的に訴えた。これは、強大な力を持つ旧仏教側との決定的な対立を避けつつ、新たな教えを日本に根付かせるための巧みな政治的配慮でもあった。
鎌倉幕府への接近と建仁寺の開創
京都周辺での布教が旧勢力の妨害により困難であることを悟った栄西は、新興の武士階級が支配する鎌倉へと向かった。座禅を通じて自己の内面と向き合う厳しい禅の教えは、質実剛健を旨とする武士の精神に合致しており、栄西は二代将軍・源頼家や北条政子ら幕府首脳から深い帰依を受けることに成功する。1200年には頼家の援助によって鎌倉に寿福寺を開山した。こうして幕府という強力な後ろ盾を得た栄西は、1202年、ついに京都へ進出し、源頼家の外護のもとで建仁寺を建立する。ただし、建仁寺は純粋な禅寺(純粋禅)ではなく、延暦寺など旧仏教への配慮から天台・真言・禅の三宗を共に学ぶ三宗兼学の道場とされた。妥協を伴いながらも、京都に禅の拠点を築いたことは日本仏教史において画期的な出来事であった。
茶の伝来と『喫茶養生記』
栄西の歴史的意義は、宗教的側面に留まらない。二度目の入宋から帰国する際、栄西は南宋から茶の種を持ち帰り、日本に本格的な喫茶の風習を伝えたことでも知られている。持ち帰った種は、九州の筑前背振山に植えられたほか、京都栂尾(とがのお)の高山寺にいた華厳宗の僧・明恵(みょうえ)にも贈られ、これが後に全国的ブランドとなる宇治茶の起源になったとされる。また栄西は、茶の栽培法や薬効成分、効能を説いた日本初の茶書『喫茶養生記』を執筆した。『吾妻鏡』には、三代将軍・源実朝が二日酔いで苦しんでいた際、栄西がこの書と共に良薬として茶を献上し、症状を劇的に和らげたという逸話が記されており、これを機に武家社会にも喫茶の習慣が急速に広まっていくこととなった。