所従

下人と同じく武士に隷属し、家内の雑役や農作業に従事した人々を何というか?
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重要度
★★★

所従 (しょじゅう)

10世紀〜16世紀頃

【概説】
平安時代以降の中世社会において、武士などの家内で隷属的な労働に従事した人々。「下人(げにん)」とほぼ同義として扱われることが多い。独立した生計を営むことができず、主人の所有物として売買や譲渡の対象とされる非自由民であった。

中世社会における非自由民「所従」の定義

平安時代中期以降の在地社会において、有力な田堵(たと)や武士などの主家に隷属し、農業労働や雑役に従事した非自由民である。古代の奴婢(ぬひ)制度が律令制の崩壊とともに解体していくなかで、それに代わる隷属身分として発生した。彼らは独立した生計を営むことができず、主家の敷地内に住み込み、あるいは主家からあてがわれた小屋に住んで、身分的な自由を持たない存在であった。一般的に下人(げにん)とほぼ同義の歴史用語として用いられるが、「所従」という言葉には「付き従う者」という、主人に対する強い人的従属のニュアンスが含まれている。

武士団の形成と所従の役割

平安時代末期から鎌倉時代にかけて武士団が形成・発展する過程において、所従は武士の所領経営の基盤を支える不可欠な労働力であった。武士の家臣団を構成する「家の子」や「郎党(郎等)」が戦闘員としての側面を強く持っていたのに対し、所従は主に平時の農業労働や家事労働を担った。また、戦時には戦闘に直接参加することは少ないものの、武器や兵糧の運搬、馬の口取りといった陣中雑役に動員された。彼らは年貢や公事(くじ)といった国家・公的な負担を免除されていたが、それは彼らが公的な存在ではなく、あくまで主人個人の完全な私有物として扱われていたためである。

売買・譲渡の対象としての実態

所従は主人の私有財産と見なされていたため、牛馬などの家畜や動産と同様に売買・譲渡・質入れの対象となった。中世の古文書には、借金のカタとして所従が質に入れられたり、親が生活苦から子を売却したりした人身売買の記録が数多く残されている。また、所従の身分は世襲され、所従同士の間に生まれた子供もまた所従として主家に隷属した。しかし、実態としては主家からの待遇が必ずしも苛烈なものばかりではなく、長年の忠勤によって名主(みょうしゅ)などの上位身分へ引き上げられる者や、わずかながら財産を蓄えて隷属状態からの脱却を図る者も存在した。

身分制の変容と所従の消滅

室町時代後期から戦国時代に入ると、農業生産力の向上や貨幣経済の浸透に伴い、所従を取り巻く環境も大きく変化した。隷属民のなかにも自立して小規模ながら田畑を耕作し、自らの家族を持つ者が増え始めたのである。さらに安土桃山時代、豊臣秀吉による太閤検地をはじめとする兵農分離政策が進められると、土地に対する権利関係が整理された。検地帳に登録された者はかつての身分に関わらず独立した「百姓(本百姓)」として公認されるようになり、一方で武家に仕える者は武家奉公人として再編された。これにより、中世的な隷属民であった所従の階層は解体に向かい、近世社会の成立とともに事実上消滅することとなった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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