文屋康秀 (ふんやのやすひで)
生年不詳〜885年頃
【概説】
平安時代前期(9世紀後半)の歌人。後世に『古今和歌集』の「仮名序」において紀貫之が選定した「六歌仙」の一人に数えられる、技巧的な歌風で知られる人物。
「商人の良き衣」と評された技巧的歌風
文屋康秀は、平安前期の和歌の革新期に活躍した歌人である。紀貫之は『古今和歌集』の仮名序において、康秀の歌風を「詞(ことば)はたくみにて、姿(さま)は及ばざりき。いわば、商人のよき衣を着たらんがごとし」と評した。これは、表現技術(レトリック)には非常に長けているが、歌の品格や中身がそれに伴っていない、という批評である。しかし、これは裏を返せば、当時の歌壇において康秀がいかに高度な言語技術や機知(ウィット)を持っていたかを示している。代表歌としては、山風を「嵐(荒らし)」と「嵐(山+風の漢字遊び)」に掛けた「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ」が有名であり、彼の知的な構成力がよく現れている。
小野小町との深い交友と低い官位
文屋康秀の経歴は、朝廷の官位としては決して高いものではなかった。縫殿助(ぬいどののすけ)や山城掾(やましろのじょう)などの低位の役職を歴任するにとどまり、地方官(受領の部下など)として下向することもあった。しかし、その宮廷サロンにおける文化的影響力は大きく、同じく六歌仙の一人である小野小町との親密な交友関係が知られている。康秀が地方官(三河掾)に任じられて任国へ下向する際、小野小町を「一緒に三河へ行かないか」と誘い、それに対して小町が「わびぬれば身を浮草の根を絶えて 誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ(落ちぶれて頼りない身の上ですから、誘ってくれる水があるなら浮草のようにどこへでも付いていきましょう)」と返歌したエピソードは、当時の風流な宮廷文化を象徴する逸話として広く知られている。