追捕使 (ついぶし)
【概説】
平安時代中期以降、国内の治安維持や反乱鎮圧、凶悪犯の逮捕のために設置された令外官の軍事・警察職。当初は重大な事件の発生時に中央から臨時に派遣されたが、のちに各国へ常設されるようになり、中世の「守護」の起源となった。
律令体制の変質と追捕使の誕生
律令制の下では、戸籍に基づく徴兵制と軍団によって国内の治安維持や防衛が行われていた。しかし、9世紀以降、班田収授の滞りや浮浪・逃亡の増大によって軍団制が維持できなくなり、各地で群盗の横行や治安の悪化が深刻化した。これに対し、朝廷は健児(こんでい)の制などを設けたものの効果は薄く、個別の警察・軍事能力を持った専門の官職が必要となった。こうして、凶悪犯の捜索や逮捕、地方の騒乱平定などの具体的な任務を帯びて、中央から臨時に派遣されたのが追捕使や押領使(おうりょうし)といった令外官(りょうげのかん)であった。
承平・天慶の乱における実戦と役割
追捕使が歴史上、大きな役割を果たしたのが、10世紀中葉に起きた承平・天慶の乱(平将門の乱・藤原純友の乱)である。特に瀬戸内海を中心に活動した藤原純友の反乱に対しては、朝廷は小野好古(おののよしふる)を山陽道追捕使に任命して現地へ派遣した。好古は、現地の武者(地方武士)を動員・組織して純友の軍勢と戦い、これを鎮圧することに成功した。この過程で、追捕使は単に中央からの使者というだけでなく、現地の有力な武士たちを「官軍」として組織化・統率する重要なパイプ役を果たし、武士が公認の軍事力として中央に認識される契機を作った。
国追捕使への展開と「守護」への継承
11世紀に入ると、追捕使は臨時の使者から、国単位で常設される国追捕使へと変化していった。国追捕使には、現地の有力な開発領主(武士)や在庁官人が任命され、国内の治安維持や警察権を行使した。これにより、武士は「追捕」という公的な大義名分を得て、地方における軍事的な実権を握ることとなった。この国追捕使の仕組みは、のちの鎌倉幕府の成立期において決定的な意味を持つ。1185年(文治元年)、源頼朝は後白河法皇から「日本国惣追捕使(のちの守護)」と「地頭」の設置・補任権を獲得した。このことから、追捕使は中世における守護制度の直接的なルーツであり、武家政権の地方支配の基礎となった極めて重要な官職であるといえる。