中尊寺
【概説】
岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺院。12世紀初頭に奥州藤原氏の初代・藤原清衡によって建立された。国宝である金色堂などに代表される絢爛豪華な仏教美術を伝え、奥州藤原氏による約100年の栄華と当時の浄土教思想を今に残す重要な歴史的遺産である。
前九年・後三年の役と建立の背景
中尊寺が建立された12世紀初頭の陸奥国(現在の東北地方)は、前九年の役(1051年〜1062年)および後三年の役(1083年〜1087年)という二度の凄惨な大戦乱の爪痕が深く残る地であった。奥州藤原氏の初代となる藤原清衡は、これらの戦乱の中で父や妻子など多くの肉親を失い、血を血で洗う過酷な権力闘争を生き延びて東北地方の覇者となった人物である。
清衡は長治2年(1105年)より中尊寺の造営を開始したが、その最大の目的は、戦乱で命を落としたすべての者たちを敵味方の区別なく供養することであった。後に清衡が読み上げた『中尊寺建立供養願文』には、みちのくの地で失われた数多の命を慰め、この地に争いのない仏の教えが行き渡る理想郷を建設するという彼の悲願が切実に綴られている。
浄土教思想と「仏国土」の現出
当時、日本の中心である京都では、仏の教えが衰退し世が乱れるという末法思想が広く信じられており、死後に極楽浄土へ往生することを願う浄土教が貴族から庶民にまで大流行していた。清衡もこの浄土教の強い影響を受けており、自らの本拠地である平泉に、現世の極楽浄土としての「仏国土」を現出させようと試みたのである。
中尊寺は単なる一寺院にとどまらず、広大な境内に多宝塔や阿弥陀堂など数十に及ぶ堂塔が立ち並ぶ巨大な宗教都市として整備された。これは、当時の京都の最先端の仏教文化を積極的に受容しつつ、東国における天台宗・浄土教の一大拠点を創り上げるという壮大な国家規模の事業であったといえる。
黄金の輝きを放つ金色堂と奥州藤原氏の財力
中尊寺を象徴する建造物が、天治元年(1124年)に建立された国宝・金色堂である。方三間の阿弥陀堂であるこの建物は、内外の壁や柱、天井に至るまで総金箔貼りで仕上げられており、夜光貝を用いた螺鈿細工や象牙、蒔絵など、当時の最高級の工芸技術が惜しみなく注ぎ込まれている。
この絢爛豪華な装飾を可能にしたのは、奥州で豊富に産出された砂金と、名馬などの特産品であった。奥州藤原氏はこれらの豊かな資源を背景に、京都の朝廷や有力貴族と莫大な富を通じて結びつくだけでなく、北方世界や中国(宋)との交易も行っていたと考えられている。金色堂に用いられた南洋産の夜光貝や紫檀などは、奥州藤原氏が独自の広域な交易ネットワークを有していたことを示す重要な史料である。
歴史的意義と現代への継承
金色堂内の須弥壇(仏壇)の下には、初代・清衡、二代・基衡、三代・秀衡のミイラ(遺体)と、源頼朝に討たれた四代・泰衡の首級が現在も安置されている。親子四代の遺体が金色の堂内に祀られている例は日本国内でも極めて珍しく、奥州藤原氏の絶大な権力と独自の死生観を物語っている。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は鎌倉の源頼朝によって滅亡させられるが、頼朝は中尊寺の文化的・宗教的価値を高く評価し、これを焼き払うことなく手厚く保護した。その後、建武4年(1337年)の大火などによって多くの堂宇が失われたものの、金色堂や経蔵などの一部は奇跡的に難を逃れ、往時の姿を今に伝えている。2011年には、中尊寺を含む平泉の文化遺産が「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、その普遍的な歴史的価値が国際的にも認められることとなった。