僧兵
【概説】
平安時代後期から戦国時代にかけて、大寺社が自らの荘園や権益を防衛するために武装させた僧侶の集団。神威を盾に朝廷に強訴を繰り返し、中世の政治・社会に大きな影響力を持ったが、織田信長や豊臣秀吉の政策によって解体された。
僧兵誕生の時代背景と自力救済
平安時代中期以降、律令国家の公地公民制が崩壊して荘園公領制が展開する中、大寺社は皇室や藤原氏からの寄進を受け、有力な荘園領主として広大な所領を形成していった。当時は警察機構が未発達で「自力救済」が原則の社会であったため、寺院もまた自らの経済的基盤である荘園を、国司の圧迫や在地領主・武士の侵犯から守る必要に迫られた。また、寺院内部でも座主(ざす)や別当(べっとう)の任命などをめぐる派閥争いが激化し、実力行使で事態を解決する傾向が強まった。このような背景のもと、下級の僧侶や寺院に隷属する民衆(神人や寄人)が武装化し、「僧衆(そうしゅ)」や「大衆(だいしゅ)」と呼ばれる巨大な武力集団が形成された。なお、「僧兵」という呼称は江戸時代以降に定着したものであり、当時は主に「悪僧」などと呼ばれていた。
南都北嶺と強訴の猛威
武装した僧衆は、自らの要求を朝廷や幕府に認めさせるため、徒党を組んで権力者の邸宅や御所に押し入る強訴(ごうそ)を頻繁に行った。中でも強大な勢力を誇ったのが、比叡山延暦寺(北嶺)と興福寺(南都)である。延暦寺は日吉大社の神輿(みこし)を、興福寺は春日大社の神木(しんぼく)を先頭に掲げて入洛し、理不尽な要求を突きつけた。神罰や仏罰を極度に恐れる当時の貴族社会において、神仏の威を借る彼らを武力で鎮圧することは極めて困難であった。白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師(延暦寺の僧兵)、これぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという『平家物語』の逸話(天下の三不如意)は、時の最高権力者でさえ統制できなかった僧兵の強大な権力を象徴している。
源平争乱から中世社会における動向
平安末期の源平の争乱期において、僧兵は独立した軍事勢力としてキャスティングボートを握る存在となった。治承4年(1180年)、以仁王と源頼政の挙兵に呼応した園城寺(三井寺)や興福寺の僧兵は平家と激しく戦い、その結果として平重衡による南都焼討を招くこととなった。鎌倉時代以降も、大寺社は朝廷・武家と並ぶ権門(宗教的領主)として強大な権威と武力を保持し続けた。とくに室町時代から戦国時代にかけては、法華一揆や一向一揆といった民衆の宗教的武装勢力とも結びついたり対立したりしながら、大名に匹敵する独立国のような勢力を築き上げた。紀伊国の根来衆(根来寺)や石山本願寺などは、最新の火縄銃を取り入れるなどして強固な軍事力を誇った。
僧兵の終焉と近世的秩序の成立
中世を通じて政治的・軍事的に多大な影響力を誇った僧兵であったが、戦国時代の終結とともにその歴史に幕を下ろすこととなる。天下統一を目指す織田信長は、自らの権力を脅かす中世的な宗教武装勢力を徹底的に弾圧した。元亀2年(1571年)の比叡山焼討ちや、石山合戦における殲滅戦は、権門としての寺社勢力の解体を決定づけた。続く豊臣秀吉も、根来寺を討伐したほか、刀狩令を発布して僧侶を含む非武家階級からの武装解除を推し進めた。これにより兵農分離ならびに兵僧分離が完了し、寺院は純粋な宗教施設としての地位に押し込められ、武力集団としての僧兵は完全に消滅したのである。