建礼門院 (けんれいもんいん)
1155年〜1213年
【概説】
平安時代末期の皇妃であり、平清盛の娘。高倉天皇の中宮となり安徳天皇を生んだが、平家滅亡の後は出家して寂光院に隠棲した人物。本名は平徳子(たいらのとくこ)であり、建礼門院は出家した後の院号である。
平氏政権の栄華を担った中宮・徳子
平清盛の次女として生まれた徳子は、平氏一門の政治権力を確固たるものとするため、承安元(1171)年に高倉天皇に入内した。これは天皇の外戚として主導権を握ろうとする清盛の政略結婚の一環であった。徳子はのちに中宮となり、治承2(1178)年には言仁親王(のちの安徳天皇)を出産する。これにより平氏は天皇家との強固な血縁関係を構築し、全盛期を迎えることとなった。しかし、この過度な権力集中は旧勢力や東国源氏の反発を招き、平氏滅亡の引き金ともなった。
壇ノ浦の戦いと寂光院における哀史
源平合戦(治承・寿永の乱)の末期、平氏一門に従って西国へと落ち延びた徳子は、寿永4(1185)年の壇ノ浦の戦いで平氏滅亡の瞬間を迎えた。母の二位尼(平時子)や我が子・安徳天皇が関門海峡へ身を投じるなか、徳子自身も海に身を投げたが、源氏の軍兵によって引き上げられ救助された。帰洛後は出家して直杔(尼僧の衣服)をまとい、京都大原の寂光院に隠棲して一門の菩提を弔う静かな日々を送った。後白河法皇が彼女を訪ねた「大原御幸」の様子は、軍記物語『平家物語』の結末部を飾る象徴的なエピソードとして、諸行無常の歴史観とともに後世に広く語り継がれている。