延喜・天暦の治

醍醐天皇(延喜)と村上天皇(天暦)の時代に行われた、摂政・関白を置かない天皇親政の時代を後世の理想として何と称したか?
カテゴリ:
重要度
★★

延喜・天暦の治 (えんぎ・てんりゃくのち)

10世紀前半〜中葉

【概説】
平安時代中期における、醍醐天皇の「延喜の治」と村上天皇の「天暦の治」を合わせた天皇親政の時代。摂政や関白を置くことなく、天皇が主導して律令体制の再建や国家制度の整備にあたった。後世、中世から近代に至るまで、天皇親政が行われた「政治の理想期」として美化され、尊ばれることとなった。

皇権の維持と律令体制再建への模索

9世紀末から10世紀半ばにかけての時期は、藤原氏による摂政・関白の設置が一時的に途絶えた時代であった。宇多天皇の譲位を受けて即位した醍醐天皇は、菅原道真を登用した宇多親政(寛平の治)の路線を引き継ぎ、901年に昌泰の変で道真を左遷した後は、摂関を置かずに親政(延喜の治)を行った。醍醐天皇の時代には、律令の補足改正である『延喜格式』の編纂が開始され、最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が撰上されるなど、学問や文化が大きく興隆した。また、中央財政を再建するために902年には「延喜の荘園整理令」を発布し、違法な荘園の抑制と公領の維持を試みている。

一方、10世紀半ばに即位した村上天皇は、藤原忠平の死後に関白を置かずに親政(天暦の治)を展開した。この時期には、本朝十二銭の最後となる「乾元大宝」の鋳造や、『後撰和歌集』の編纂が行われ、延喜の治と並び称される文治政治が展開された。両天皇による政治は、摂関政治に移行する以前の、天皇が直接国政をリードした最後の輝かしい時代として記録されることとなった。

制度の変容と後世における「理想化」

しかし、歴史学的な実態として、この時代は律令国家体制が崩壊し、新たな統治システムへと移行する過渡期であった。醍醐天皇による「延喜の荘園整理令」は大きな成果を上げられず、戸籍に基づく人身支配を前提とした律令的支配は限界を迎えていた。このため、現地赴任した国司(受領)に一定の納税を条件に一国の支配を委ねる王朝国家体制へと、国家のあり方そのものが大きく変容していった。さらに、村上天皇の時代を挟む形で承平・天慶の乱(平将門の乱、藤原純友の乱)が発生しており、地方の治安維持を武装化した「武士」に頼らざるを得ないなど、朝廷の支配権力には陰りが見え始めていた。

また、「摂関を置かない親政」とはいうものの、実際には藤原実頼や藤原師輔ら藤原北家が実質的な政務を主導しており、摂関政治が本格化する直前の準備段階にすぎなかったという側面もある。それでもなお、この時代が「延喜・天暦の治」として理想化されたのは、後世の政治的要請によるものである。鎌倉時代末期に天皇親政を目指した後醍醐天皇は、この時代の政治を手本(建武の新政)とし、南北朝時代の北畠親房が著した『神皇正統記』などにおいても「理想の治世」として最大級の賛辞が送られた。実態は社会の転換期でありながら、後世の天皇親政運動や皇国史観の中で、象徴的な黄金期として語り継がれることとなったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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