奈良
【概説】
古代の大和国中央部(現在の奈良盆地北部)に位置する地名。710年(和銅3年)に唐の長安を模した壮大な都である平城京が造営され、日本の政治・文化の中心として繁栄した場所である。
古代国家の中枢としての地理的条件
奈良は、大和国の中央部である奈良盆地の北部に位置し、古くから大和朝廷の勢力圏の核心をなす地域であった。飛鳥時代にかけては盆地南部の飛鳥地方に宮都が集中していたが、律令国家の形成が進むにつれて、より大規模な都城が求められるようになった。そこで、694年に日本初の本格的都城である藤原京が造営されたものの、立地条件や水運の便の悪さ、さらには唐の都城制との構造的な違いなどから、わずか十数年で新たな遷都が計画された。その白羽の矢が立ったのが、陸上・水上交通の便が良く、より広大な平野部を有する奈良の地であった。
平城京の造営と律令国家の成熟
710年(和銅3年)、元明天皇の代に藤原京から奈良の地へ遷都が行われ、平城京が誕生した。平城京は、当時の東アジア世界において圧倒的な威容を誇っていた唐の都・長安をモデルに設計された計画都市である。中央を南北に走る朱雀大路を軸に、碁盤の目状に区画される条坊制が採用され、北端の中央には天皇の居所や官庁街である平城宮が置かれた。
この奈良に都が置かれた約70年間(784年の長岡京遷都まで。一時期の恭仁京などの彷徨を除く)を奈良時代と呼ぶ。この時代は、大宝律令(701年)や養老律令(718年制定、757年施行)に基づく中央集権的な律令体制が確立し、天皇の権威のもとで国家運営が機能した日本古代史における一つの到達点であった。奈良は、まさにその政治的・機能的な中心舞台として機能したのである。
国際都市としての繁栄と天平文化の開花
当時の奈良は、シルクロードの東の終着点とも称される国際色豊かな都市であった。遣唐使を通じて唐の先進的な制度や文化が直接もたらされただけでなく、新羅や渤海、さらにはインドやペルシアなどの西域の文化までもが流入した。正倉院宝物にみられる異国情緒あふれる工芸品の数々は、奈良がいかにグローバルな文化の結節点であったかを物語っている。
また、奈良時代は仏教が国家の保護を受けて大きく花開いた時代でもある。特に聖武天皇は、仏教の力で国家の安泰を祈る鎮護国家の思想に基づき、国分寺・国分尼寺の建立の詔(741年)や大仏造立の詔(743年)を発した。平城京内やその周辺には、東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺など、後に「南都七大寺」と呼ばれる壮麗な大寺院が立ち並び、奈良は政治都市であると同時に、壮大な仏教都市としての景観を呈していた。
長岡京遷都とその後の「南都」
8世紀後半になると、仏教勢力が政治に深く介入するようになり(道鏡の台頭など)、律令政治に歪みが生じ始めた。これを刷新するため、桓武天皇は784年に山背国の長岡京へ、さらに794年に平安京へと遷都を行った。これにより、奈良は政治の表舞台からは退くこととなった。
しかし、都が移った後も奈良の地が廃れることはなかった。平安京(北の都)に対して奈良は南都と呼ばれ、興福寺や東大寺といった大寺院は広大な荘園を領有し、強大な武力(僧兵)を持つ宗教的権門として君臨した。中世を通じて、奈良は朝廷や幕府さえも容易に手出しできない独自の勢力圏を形成し、日本の中世社会において極めて重要な役割を担い続けたのである。