藤原仲麻呂(恵美押勝) (ふじわらのなかまろ / えみのおしかつ)
【概説】
奈良時代中期に活躍した藤原南家の公卿。光明皇太后の厚い信任を背景に政敵である橘諸兄らを退けて権力を掌握し、唐風化政策や養老律令の施行を推し進めた。しかし、皇太后の死後は孝謙上皇や道鏡と激しく対立し、反乱を起こすも敗死した。
光明皇太后の信任と政権掌握への道程
藤原不比等の長男である武智麻呂(藤原南家の祖)の次男として生まれる。737年、天然痘の猛威によって父を含む藤原四兄弟が相次いで病死すると、藤原氏の勢力は一時後退し、皇族出身の橘諸兄が政権を握った。しかし仲麻呂は、叔母にあたる光明子(聖武天皇の皇后)の厚い信任を背景に、政界で急速に台頭する。
749年に孝謙天皇が即位すると、光明皇太后のための家政機関である紫微中台(しびちゅうだい)が新設され、仲麻呂はその長官である紫微令に就任した。さらに軍事部門も統括するようになったことで、彼は従来の太政官機構とは異なる独自の強力な権力基盤を確立し、諸兄を徐々に圧倒していくこととなる。
橘奈良麻呂の変と専制体制の確立
755年、橘諸兄が失言を咎められて政界を引退(翌年死去)すると、仲麻呂の権力はさらに強固なものとなった。これに強い危機感を抱いた諸兄の子・橘奈良麻呂は、757年に大伴氏や佐伯氏ら反仲麻呂派の旧勢力を結集してクーデターを計画したが、事前に露見して苛烈な粛清を受けた(橘奈良麻呂の変)。
この事件を機に政敵を一掃した仲麻呂は、翌758年に自らの推す大炊王を天皇に擁立した(淳仁天皇)。天皇から「恵美押勝(えみのおしかつ)」という唐風の美名を賜り、藤原氏としての氏の上(氏族の長)に立つだけでなく、事実上の独裁体制を築き上げた。
唐風化政策と養老律令の施行
政権の絶頂期にあった仲麻呂(恵美押勝)は、当時の唐の制度に強く傾倒し、急進的な唐風化政策を推し進めた。官職名を唐風に改称し、例えば太政大臣を「太師」、左大臣を「大傅」などと呼称させ、自らは最高職の太師に就任した。
また、祖父の不比等らが編纂して長らく未施行であった養老律令を757年に施行し、法制度の整備による国家体制の引き締めを図った。さらに、新羅征討計画を立案して対外的な緊張感を煽ることで、国内の軍事動員体制を強化し、自らの権力をより磐石なものにしようと画策した。
孝謙上皇・道鏡との対立と恵美押勝の乱
しかし、760年に最大の後ろ盾であった光明皇太后が崩御すると、仲麻呂の権勢に陰りが見え始める。孝謙上皇が病に倒れた際、看病にあたった僧の道鏡を寵愛するようになり、道鏡の排除を求める淳仁天皇・仲麻呂との間に深刻な対立が生じた。762年、孝謙上皇は天皇から政権を奪還することを宣言し、道鏡を重用し始めた。
権力基盤を脅かされ危機感を募らせた仲麻呂は、764年に軍事力を用いて政権の奪回を図る反乱を起こした(恵美押勝の乱、または藤原仲麻呂の乱)。しかし、先手を打った上皇方に機先を制され、近江国へと逃れる途上で官軍に敗れて一族とともに斬首された。彼の死後、推進された唐風化政策は直ちに廃止され、時代は道鏡と称徳天皇(重祚した孝謙天皇)による新たな政治体制へと移行していくこととなる。