羅城門 (らじょうもん)
【概説】
古代の日本における都城(平城京・平安京)の南端に置かれた、都を代表する正門。中央を南北に貫くメインストリート・朱雀大路の南の起点であり、国家の威信を内外に示す象徴的な建造物。
古代都城制における羅城門の役割
奈良時代に造営された平城京をはじめとする日本の都城は、唐の首都である長安城を模範として設計された。都の最北中央には天皇の居所や官庁街が集まる「宮城(平城宮)」が置かれ、そこから南に向けて幅約74メートルに及ぶ巨大なメインストリートである朱雀大路が直進していた。その朱雀大路の南端に、宮城の正門である「朱雀門」と対峙する形でそびえ立っていたのが羅城門である。
羅城門は単なる通行のための出入り口ではなく、律令国家の「顔」としての役割を担っていた。外国からの使節(遣唐使や新羅使など)を迎える儀礼の場であり、天皇が治める「秩序ある王土」の入り口として、国家の威信と文明化をアピールするための視覚的装置であった。また、この門の内側(京内)と外側(京外)は、文明と野蛮、秩序と無秩序を分ける象徴的な境界としての意味も持っていた。
平城京羅城門の構造と「羅城」の実態
平城京の羅城門は、近年の発掘調査によってその位置と規模が明らかになっている。現在の奈良県大和郡山市と奈良市の境界付近に位置し、東西約33メートル、南北約12メートルの大規模な基壇を持つ、二重閣(2階建て)の堂々たる瓦葺き建築であったと推定されている。
本来、中国の都城における「羅城」とは、都市の周囲を完全に取り囲む強固な城壁(外郭城)を指す。しかし、平城京においては、軍事的な外敵の侵入リスクが低かったこともあり、城壁は都の南面(羅城門の左右)に限定して、象徴的な大垣(土塀)が築かれたに過ぎなかった。このように、実質的な防衛機能よりも、都としての格式や体裁を整えることを最優先した点に、日本独自の都城制の特質が見て取れる。
平安京への継承と「羅生門」への変容
羅城門の思想と建築構造は、794年に遷都された平安京にもそのまま受け継がれた。平安京の羅城門は、現在の九条通に位置し、東寺と西寺の間に挟まれる形で都の表玄関として機能した。
しかし、平安時代中期に入り律令国家の財政が窮迫すると、度重なる暴風雨によって倒壊した羅城門は再建されることなく放置され、次第に荒廃していった。平安後期には治安の悪化に伴って盗賊の巣窟や死体遺棄の場所へと変貌し、怪異の舞台として人々に恐れられるようになった。この凋落の歴史は、のちに『今昔物語集』などの説話に描かれ、近代には芥川龍之介の短編小説『羅生門』(「羅城門」の表記が変化したもの)の舞台として広く知られることとなった。